「背後の一突き」の版間の差分

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1919年6月の[[ヴェルサイユ条約]]調印後、ドイツの国民議会でドイツの敗北の原因を調査する調査委員会が開かれた。11月18日にこの委員会に喚問された元[[プロイセン参謀本部|参謀総長]][[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]は「帝国は戦争に負けたのではなく、背後から鋭い刃物で一突き(ドルヒシュトース)にされたのである」という証言を行った。左翼勢力が反戦運動や革命運動で国民を扇動し、その結果挙国一致体制が崩れ、戦争続行が不可能になってしまったのであり、したがって敗戦責任は全て革命家や社会主義者にあるとする主張だった。このヒンデンブルクの証言によって背後の一突き説はたちまちのうちにドイツ国民の間に広がったものと考えられている{{sfn|大澤武男|2008|p=74}}。
 
またイギリスの{{仮リンク|フレデリック・モーリス (イギリス陸軍将校)|label=フレデリック・モーリス|en|Frederick Maurice (Britishsoldier, Armyborn officer1871)}}少将が1919年に出版した『最後の4カ月(The Last Four Months)』が、ドイツの新聞によって「ドイツ軍は国内戦線で社会主義者に裏切られたが戦場で敗れたのではなかった」という内容であると紹介されたことも背後の一突き説が広まる原因となった。ヒンデンブルクも先の証言の中で「某イギリス将軍が言ったことは正しい」という表現でモーリスのことに言及している。モーリスはドイツの新聞に否定声明を出したが、いったん流された噂はもはや打ち消すことはできなかった{{sfn|ベネット|1970|p=206}}。
 
背後の一突き説は保守派・右派にとって自分たちの責任を回避しつつ、左翼に責任を押し付けることができる都合のいい歴史観であったため、彼らが積極的にこの伝説を流布した{{sfn|大澤武男|2008|p=74}}。特に保守政党[[ドイツ国家人民党]]が左翼政党を攻撃するのに利用した{{sfn|モムゼン|2001|p=77}}。
 
[[ジョン・ウィーラー=ベネット]]によれば第二次世界大戦中の1943年から[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]がドイツの無条件降伏という政策を取るようになったのは、敗戦責任をユダヤ人に押し付ける背後の一突き説を二度と唱えられないようにするためであったという<ref>{{cite book |last=Wheeler-Bennett |first=John W. |title=The Nemesis of Power: The German Army in Politics, 1918–1945 |url=https://archive.org/details/nemesisofpowerge0000whee |url-access=registration |year=1954 |location=London |publisher=Macmillan |page=[https://archive.org/details/nemesisofpowerge0000whee/page/559 559] }}</ref>
 
== 脚注 ==
<references />