「ヨハネス11世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''ヨハネス11世'''('''Ioannes(Ioannes XI'''、[[910年]]? - [[935年]])は、[[ローマ教皇]](在位:[[931年]] - 935年)。
 
[[スポレート]]公[[アルベリーコ1世・ディ・スポレート|アルベリーコ1世]]と[[ポルノクラシー]]で悪名高い[[マロツィア]]の息子とされる。リウトプラントと''Liber Pontificalis''によると、ヨハネス11世は[[セルギウス3世 (ローマ教皇)|セルギウス3世]]の実子だとされる("Johannes, natione Romanus ex patre Sergio papa", "''Liber Pont.''")。
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マロツィアが排除されると、ヨハネス11世は弟[[アルベリーコ2世]]([[932年]] - [[954年]])の統制下に置かれた。教皇の自由になる唯一の公務は純粋に霊的な義務を果たすのみとなった。他の全ての公務はアルベリーコ2世を通じて行われた。これは世俗的な事のみならず、教会内部の事柄においてさえそうであった。
 
アルベリーコ2世は、[[パリウム]]を[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総大主教]]のテオフィラクトス([[935年]])や、[[ランス (マルヌ県)|ランス]][[大司教]]アルトー([[933年]])へ与えよと執拗に迫った。教皇座が最も虐げられていた時代にその座にいたのがヨハネス11世であった。しかし彼はその頃多くの特権を[[クリュニー修道院]]に与えており、それがのちの教会改革運動に繋がることとなる。
 
== 外部リンク ==
*[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=8824003 John XI at Find-A-Grave] {{En icon}}
 
== 参考文献 ==
*[http://womenshistory.about.com/library/bio/blbio_marozia.htm Marozia] {{En icon}}
 
== 外部リンク ==
*[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=8824003 John XI at Find-A-Grave] {{En icon}}
 
{{ローマ教皇|125代:931年-935年}}
 
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[[Category:910年生|よはねす1110世紀の教皇]]
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