「ヨハネス18世 (ローマ教皇)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
m編集の要約なし
27行目:
| 曖昧 = ヨハネス
}}
'''ヨハネス18世'''('''Ioannes(Ioannes XVIII'''、? - [[1009年]][[7月18日]])は[[ローマ教皇]](在位:[[1004年]] - 1009年)。
 
[[ローマ]]の聖職者レオの子として[[ラパニャーノ]]にて生まれる。本名は'''ジョヴァンニ・ファサーノ'''(Giovanni Fasano)。[[ラテン語]]名は'''ヨハネス・ファサヌス'''(Ioannes Fasanus)。
 
伝承によれば、教皇在任中はずっと、ローマを支配する一門であるクレスケンティウス一族の首領にしてパトリキウス(貴族階級の軍事指導者)であるヨハネス・クレスケンティウス3世に従属させられていた。この期間はまた、のちに[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]]となる[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]と、自称[[イタリア王]]の[[アルドゥイノ・ディヴレ]](Arduino d'Ivrea)との間に生じた衝突によって混乱していた時期でもあった。またローマは[[ペスト]]禍に見舞われ、[[サラセン人]]らが[[ティレニア海]]沿岸を略奪した。
 
教皇としてヨハネス18世は細かな教会組織の管理に専心した。また[[スラヴ人]]への布教活動の前線として[[バイエルン州|バイエルン]]の都市[[バンベルク]]に[[司教|司教座]]を制定した。バンベルク司教座は皇帝ハインリヒ2世にとっても重要なものであった。そしてフルーリー修道院長とサンス司教・[[オルレアン]]司教の諍いの裁定もおこなった。
37行目:
最終的にヨハネス18世は退位してのちローマの修道院に入り、そこですぐに死去した。
 
「教皇ヨハネス」の番号について、[[ヨハネス16世 (対立教皇)|ヨハネス16世]]が[[対立教皇]]であるため、正確にはヨハネス18世は17番目の「教皇ヨハネス」である。しかし当時ヨハネス16世を正統な教皇と見做していたため、16番目の「教皇ヨハネス」は[[ヨハネス17世 (ローマ教皇)|ヨハネス17世]]と称し、ヨハネス18世もこれに続いた。また、[[ヨハネス14世 (ローマ教皇)|14世]]と[[ヨハネス15世 (ローマ教皇)|15世]]の間にもう一人の「教皇ヨハネス」がいたという説があり、その伝説の教皇を「16世」とすることがあったことから、一部の[[歴史家|歴史学者]]はこのヨハネス18世を「ヨハネス19世」ないし「ヨハネス18世(19世)」と呼称することがある。
 
{{ローマ教皇|第141代:1004年 - 1009年}}
43行目:
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:よはねす18}}
[[Category:10世紀の教皇|よはねす18]]
 
[[Category:教皇|よはねす18]]
[[Category:10世紀生]]
[[Category:1009年没]]