「グレゴリウス9世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''グレゴリウス9世'''('''Papa Gregorius(Gregorius IX''', [[1143年]]? - [[1241年]][[8月22日]])は中世の[[教皇|ローマ教皇]](在位:[[1227年]] - 1241年)。[[アナーニ]](イタリア中部)出身。本名はウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)。[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]との確執で有名だが、法学者としても有能で、各司教が自らの裁量で行っていた[[異端審問]]の制度を整備したことでも知られる。
 
== 生涯 ==
 
== 業績 ==
彼は教皇として、[[エルジェーベト (ハンガリー王女)|ハンガリーのエルジェーベト]]、[[ドミニコ]]、[[パドヴァのアントニオ]]、[[アッシジのフランチェスコ]]など多くの[[聖人]]を[[列聖]]している。グレゴリウス9世はまだ[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]など王の影響が強かった[[ギリスングランド王国|イングランド]]の教会への自らの影響力を強め、フランスにおいても教皇庁の影響力を強めるべく努力していた。当時のフランスでは[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の「{{読み仮名|[[国本勅諚]]|プラグマティック・サンクション}}<ref>([[:en:Pragmatic Sanction|Pragmatic Sanction]])</ref>」を法的根拠としてローマからの独立性を主張していた。ちなみに現代ではこの国本勅諚は[[14世紀]]に作られた偽書であると考えられている。1230年には[[ドイツ騎士団]]へ勅書を授け、異教徒への武力行使を認めている。ドイツ騎士団はこれを受け、[[プロイセン]]への[[東方植民]]を開始した。
 
他の事績としては、ローマにある[[サンタ・マリア・デル・ポポロ教会]]の改築を行ったこと、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[アンドラーシュ2世]]を破門にしたことであが挙げられる。
 
== 脚注 ==
 
{{ローマ教皇|178代:1227年 - 1241年}}
 
{{Normdaten}}
 
[[Category:教皇|くれこりうす09]]
[[Category{{デフォルトソート:1143年生|くれこりうす09]]}}
[[Category:1241年没|くれこりうす0913世紀の教皇]]
[[Category:1143年生]]
[[Category:1241年没]]