「霊太后」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
16行目:
| 生地 = [[北魏]]・[[安定郡]]臨涇県(現在の[[甘粛省]][[慶陽市]][[鎮原県]])
| 死亡日 = [[528年]]
| 没地 = [[北魏]]・[[孟津区|]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[北魏]]・双霊寺
29行目:
| サイン =
}}
'''霊太后'''(れいたいごう、? - [[528年]])は、[[北魏]]の第7代[[皇帝]]である[[宣武帝]]の充華([[側室]])であり、第8代皇帝[[孝明帝]]の実母である。姓は胡氏で、父は[[司徒]]の[[胡国珍]]。霊は[[諡]]で、夫の諡を重ねて'''宣武霊皇后'''とされた。'''霊太后胡氏'''、'''胡太后'''とも称される。宣武帝の[[崩御]]後、[[皇太后]]となってから北魏の実権者となったため霊太后として知られる。
 
== 生涯 ==
[[安定郡]]臨涇県(現在の[[甘粛省]][[慶陽市]][[鎮原県]])の人。[[宮中]]に入り、世婦から充華に進んだ。聡明で才知深く、[[仏教]]を篤信した。当時の北魏の[[後宮]]では、皇子が立太子されるとその生母は[[賜死|死を賜う]]という習慣があった。そのため、妃嬪や宮人はみな皇女を産むことを祈願していた。そんな中で、当時の胡世婦は自ら祈願して皇子を産んだ。それが元詡、後の孝明帝である。その後、皇太子の生母に死を賜るという風習は宣武帝によって廃止されたが、それによって皇太子の母が実権を握り、権勢を振るう弊害が生じることとなった。
 
孝明帝が即位すると、胡充華が皇太妃と尊称されるようになり、その後また皇太后に昇りつめ、[[垂簾聴政|臨朝聴政]]([[摂政]])するに及んだ。その執政には節度が見られず、その{{読み仮名|紊乱|びんらん}}を理由に一時的に北宮に閉居させられたほどであった。しかし[[正光]]6年([[525年]])、[[宦官]]が実権を掌握し、臣下に政権争いが勃発すると、執政に返り咲いた。
40行目:
[[武泰 (北魏)|武泰]]元年([[528年]])、孝明帝が突然崩御した(一説によれば、帝が[[爾朱栄]]を頼ろうとしたため、霊太后が毒殺したとされる)。孝明帝には男子がなく、胡太后は帝の唯一の子であった[[:zh:元氏 (北魏孝明帝女)|皇女某]]を男と偽って皇太子と称し、同年(528年)4月1日にこれを無理やり帝位に就けた。しかし、すぐにそのことが発覚したため、皇女某をわずか1日で[[廃位]]し、改めて4月2日に孝明帝の従甥にあたる[[元釗]](幼主)を帝位に就けた。
 
このような目まぐるしい廃立は天下を震撼させるに余りあり、将軍の[[爾朱栄]]はその{{読み仮名|欺瞞|ぎまん}}を疑い、挙兵に及んだ。そして、わずか15日で京師の[[洛陽]]を陥落させ、幼主と胡太后を捕らえた。代わって、新たに長楽王元子攸([[孝荘帝]])が皇帝に擁立された。爾朱栄は幼主と胡太后を連行して[[孟津区|]]に送り、[[黄]]に沈めた([[河陰の変]])。
 
その後、胡太后の妹の馮翊郡君[[胡玄輝]]([[元叉]]の妻)により胡太后の遺骨は双霊寺に埋葬された。[[高歓]]が爾朱氏を破った後、[[皇后]]の礼で改葬され、「霊」と諡された。