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'''ピウス8世'''('''Pius(Pius VIII'''、[[1761年]][[11月20日]] - [[1830年]][[11月30日]])は、[[ローマ教皇]](在位[[1829年]][[3月31日]] -[[ 1830年]][[11月30日]])、[[カトリック教会]]の[[司祭]]。本名、'''フランチェスコ・サヴェリオ・カスティリオーニ'''({{lang|it|Francesco Saverio Castiglioni}})。ナポレオン後の欧州の新体制にカトリック教会がどう順応していくかという方向性を模索しつづけた。
 
== 生涯 ==
[[1761年]][[イタリア教皇領]]の[[チンゴリ]]で貴族の家に生まれたカスティリオーニの前半生においてヨーロッパはまさに[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代であった。彼も[[フラスカーティ]]の[[司教]]時代、政治抗争に巻き込まれる形でフランスへ連行されている。[[1816年]]にナポレオン後のヨーロッパの新秩序(いわゆる[[ウィーン体制]])が構築され、[[教皇庁]][[教皇領]]が復興するとカスティリオーニは[[枢機卿]]に任命され、教皇[[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]]の側近となった。レオ12世没後の[[コンクラーヴェ]]で新教皇に選ばれると、カスティリオーニはピウス8世を名乗った。
 
ピウス8世の教皇在職時代のヨーロッパはナポレオン後の不安定な時期であった。ピウス8世はこの不安定さの原因が[[秘密結社]]とプロテスタントの策動にあると考えていたらしく、この両者を厳しく糾弾している。フランスでは[[七月革命]]によって[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が即位する。ピウス8世はフランスの教会をふたたびフランス政府の手から取り戻したいと考えつつ、ルイ・フィリップをフランス王として承認している。またこの時代、イギリスでは[[カトリック教徒解放令]]([[1829年]])が出され、ドイツでは[[異宗婚とキリスト教|異宗婚]](宗教が違う者同士の結婚)がはじめて教会によって認められるようになった。近代国家へと変質ししつづける欧州の諸国家にカトリック教会がどう対応していくかが問われていたのである。
 
ピウス8世が[[1830年]]に急の病を得てそのまま逝去すると[[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]]がそのあとを継いだ。
 
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