「長篠の戦い」の版間の差分

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== 開戦に至る経緯 ==
[[甲斐国]]・[[信濃国]]を領する[[武田氏]]は[[永禄]]年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し([[駿河侵攻]])、[[元亀]]年間には[[遠江国]]・[[三河国]]方面へも侵攻していた。その間、[[美濃国]]を掌握した[[尾張国]]の織田信長は[[足利義昭]]を擁して[[上洛]]しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻([[西上作戦]]{{Refnest|group="注釈"|なお従来の西上作戦とは、元亀2年における三河・遠江への大規模な侵攻とされていたが、近年では文書の再検討により三河・遠江侵攻に関する文書の年代比定は“元亀2年(1571年)から天正3年(1575年)”に修正され、一連の経緯は長篠の戦いに関するものである可能性が考えられている<ref>鴨川達夫『武田信玄と勝頼』岩波新書、2007年</ref><ref>柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年</ref><ref>柴裕之「長篠合戦の政治背景」武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年</ref><ref>柴裕之「長篠合戦再考-その政治的背景と展開-」 『織豊期研究』12号、2010年</ref>。}})したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。
 
しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、[[朝倉氏]]・[[浅井氏]]ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「[[天下人]]」としての地位を引き継いで台頭した。
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武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年([[1573年]])[[8月]]には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の[[奥平信昌]])が、秘匿されていた[[武田信玄]]の死を疑う父・[[奥平貞能|貞能]]の決断により一族を連れて徳川方へ再属{{Refnest|group="注釈"|ただし、貞能の父である[[奥平貞勝]]はこれに反対して離反、長篠の戦いにも武田方で参戦後、武田氏滅亡後まで武田軍の一員として息子や孫と戦っている<ref>柴裕之「三河国衆奥平氏の動向と態様」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref>。}}。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。
 
武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始<ref>勝頼期の外交については丸島和洋「武田勝頼の外交政策」(柴辻俊六・平山優 編集『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年</ref>。[[奥平氏]]の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。また、[[大賀弥四郎|大岡弥四郎]](大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が[[岡崎城]]を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある<ref>柴裕之「長篠合戦再考」『織豊期研究』12号、2010年)</ref><ref>柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年</ref>。
 
== 『信長公記』等による合戦の経緯 ==