「長篠の戦い」の版間の差分
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[[高柳光寿]]は『[[長篠之戦]]』で、織田12,000-13,000、徳川4,000-5,000とし、武田8,000-10,000でその内、設楽原へ布陣した兵数が6,000-7,000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。
武田氏の動員兵力は、『[[甲陽軍鑑]]』にある騎数9,121から想定し最小で36,000最大で52,000の動員が可能であったと考えられている{{Refnest|group="注釈"|信玄後期の家臣団編成を記した「武田法性院信玄公御代惣人数之事」の記事から<ref>[[平山優 (歴史学者)|平山優]]「武田信玄の家臣団編成」(『新編武田信玄のすべて』
被害については[[信長公記]]の10,000人以上が通説になっているが、同時代に成立した『[[多聞院日記]]』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。そのため、武田軍の犠牲者は1,000人程度だったのではないかという説がある(ただし「国衆」を[[国人]]級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。また、『[[吉田兼見|兼見卿記]]』には「数千騎討死」とある。
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