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[[1983年]][[7月23日]]、[[新潟競馬場|新潟競馬]]の[[新馬|新馬戦]]でデビューし、優勝した<ref group="注">旧3歳7月の初出走は、歴代三冠馬の中では最も早い。</ref>。このときのレースぶりについて岡部は「1000メートルで1600メートルの競馬を覚えさせた」と述べた。
 
新馬戦のあとシンボリ牧場で調整されたシンボリルドルフは10月上旬に[[美浦トレーニングセンター]]へ戻り、[[10月29日]]の[[いちょうステークスサウジアラビアロイヤルカップ|いちょう特別]](現・サウジアラビアロイヤルカップ)]]を優勝した。野平はこのときの岡部の騎乗を見て「1600メートルのレースで2400メートルの競馬をした」と語っている。
 
3走目には[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]](現・朝日杯フューチュリティステークス)]]ではなく[[11月27日]]の一般オープン競走が選択され、優勝した。
 
==== 3歳時のローテーションについて ====
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=== 4歳 ===
==== 競走内容 ====
[[1984年]]、4歳初戦として[[弥生賞]](中山芝2000m)に出走。このレースはシンボリルドルフにとって3か月ぶりとなり、18[[キログラム]]増の馬体重で出走した。このレースではそれまで岡部が主戦騎手を務め4連勝中であった[[ビゼンニシキ]]が[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]となったがこれを[[着差 (競馬)|1馬身4分の3差]]で破った。
 
皐月賞では弥生賞から22キログラム減の馬体重となった。前走で負った外傷による休養後、運動の遅れを取り戻すために行った強めの調教が原因だった。ふたたびビゼンニシキとの2強対決となり、2頭に人気が集中しそうだったため2頭とも[[単枠指定制度|単枠指定]]とされた。今度はシンボリルドルフが1番人気となった。シンボリルドルフは道中3番手で競馬を進め、第4コーナーでは先頭になった。直線に入るとビゼンニシキと[[一騎討ち]]になり、シンボリルドルフは外側を走るビゼンニシキと激しくぶつかり合い、外に斜行している。しかし最後はビゼンニシキを1馬身4分の1抑えてレースレコードで一冠達成。ただし、この[[斜行]]で岡部は2日間の騎乗停止処分を受けている。表彰式で三冠を意識して岡部が一冠を示す1本指を指し示した(このパフォーマンスはのちに[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]に騎乗した[[武豊]]も行った)。
 
[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]](東京芝2400m)はビゼンニシキとの「SBダービー」と呼ばれた。皐月賞に続いて揃って単枠指定とされた2頭の[[投票券 (公営競技)#連勝複式|連勝複式(現在の枠番連勝)]]馬券は銀行馬券と呼ばれ、今も投票額最高記録を維持している。しかし単勝では[[オッズ]]1.3倍とシンボリルドルフの圧倒的1番人気だった。また回避馬が続出し、当時の戦後最少頭数となる21頭でのレースとなった。レースでは[[スズマッハ]]が逃げる展開となった。シンボリルドルフが向こう正面で岡部のゴーサインに反応しなかったために競馬場は騒然となったが、直線に入ると自ら[[ハミ (馬具)|ハミ]]をとり3頭併せで先を行くスズマッハ・[[フジノフウウン]]・[[スズパレード]]を差し切り二冠達成。この出来事から岡部は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語っている。無敗での二冠制覇は[[トキノミノル]]、[[コダマ (競走馬)|コダマ]]以来3頭目の快挙だった。ビゼンニシキは14着と沈んだ。ここでも岡部は表彰式で二冠を示す2本指を立てた。
 
ダービー後、和田はルドルフの海外遠征を計画。新聞などでも報道された<ref name="saikyo183">『史上最強馬シンボリルドルフ』 p.183</ref>。しかし、ルドルフが右前脚に故障を発症したことと検疫条件が整わなかったことが重なり、7月に海外遠征の中止が発表された<ref name="saikyo202203">『史上最強馬シンボリルドルフ』 pp.202-203</ref>。
 
秋緒戦、故障した右肩も回復し、すっかりリフレッシュしたシンボリルドルフは[[セントライト記念]](中山2200m)をレコードタイムで優勝。そして、三冠最後の[[菊花賞]](京都芝3000m)に挑む。道中は馬群の中団に位置し、第3コーナーではやや前の馬が壁になったものの、最後の直線で抜け出すと外から襲い掛かってきた[[ゴールドウェイ]]を4分の3馬身退け優勝。日本の中央競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を達成する。表彰式では岡部が三冠を示す3本指を立てた。シンボリルドルフの後、現時点で三冠馬は4頭いるが、関東馬によるクラシック3冠はシンボリルドルフを最後に出ていない<ref group="注">1994年[[ナリタブライアン]]、2005年[[ディープインパクト (競走馬)]|ディープインパクト]]、2011年[[オルフェーヴル]]、2020年[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]]は全て[[栗東トレーニングセンター|関西馬]]である。</ref>。
 
そして3000メートルの菊花賞後、[[ローテーション (競馬)|中1週]]の強行軍で[[第4回ジャパンカップ|ジャパンカップ]](東京芝2400m)へと駒を進めた。
 
前年の三冠馬[[ミスターシービー]]と、史上初の三冠馬同士の対戦となった第4回ジャパンカップだったが(2014年現在三冠馬対決はこの2頭のとき以外実現していない)、シンボリルドルフは下痢をするなど体調不良が大きく報道され、中一週、4歳ということもあって生涯最低の4番人気となった。1番人気は前走[[天皇賞]](秋)を殿からの追込でレコード勝ちしたミスターシービー。2番人気は[[せん馬]]ゆえに本国英国のGIに出走できずも実力はGI級と言われる[[ベッドタイム]]、3番人気はアメリカのターフ(芝コース)ホースとしては世界の賞金王[[ジョンヘンリー]]に次ぐと言われるマジェスティーズプリンスだった。しかし、レースはノーマークの大逃げとなった10番人気の[[宝塚記念]]馬[[カツラギエース]]が逃げ切り勝ちを収め、史上初の日本馬のジャパンカップ優勝馬となった。シンボリルドルフは終始好位につけ、生涯最高の上がりを計測するも、ベッドタイムにも及ばず3着と敗れ、連勝記録は8でストップした。
 
初の敗戦後に迎えた[[有馬記念]](中山芝2500m)は、シンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースが史上初の3頭単枠指定となり(有馬記念の単枠指定自体も初)「3強対決」として沸いた。シンボリルドルフはファン投票こそミスターシービーに次ぐ2位だったものの、単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持される。岡部は、前走カツラギエースにノーマークで逃げ切られた反省から、カツラギエースをマークする競馬に徹し、ジャパンカップの再現を狙って大逃げを図るカツラギエースの終始2番手を追走、最後の直線で計ったように交わすと、粘るカツラギエースに2馬身差をつけてレコードタイムで優勝し、中央競馬史上初の4歳四冠を達成した。表彰式で岡部は4本指を立てた。この年7戦6勝3着1回で年度代表馬に選出され、フリーハンデも4歳ながら前年のミスターシービーの65kgを越える史上最高の67kg(当時の数値)を与えられた。
 
==== 弥生賞における岡部の選択 ====
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=== 5歳 ===
[[1985年]]初戦の[[日経賞]](中山芝2500m)は単勝オッズが100円元返しであった。レースでは逃げる馬がいないので押し出される形で先頭に立ったが、4馬身差で勝つ。岡部は手綱を持ったままであった。
 
ミスターシービーとの三度目の三冠馬対決となった次走の天皇賞(春)(京都芝3200m)は、3コーナー手前でミスターシービーが早めにスパートして先頭に立ち、初めて先輩三冠馬を前に見る展開となったが、岡部が気合を入れるもダービー同様シンボリルドルフは先行馬を深追いせず、直線入り口でミスターシービーが失速したところを楽に差し返し、同じ[[パーソロン]]産駒のサクラガイセンに2馬身1/2の差をつけ優勝した。表彰式で岡部は5本指を立てた。その後、同年の東京優駿優勝馬である[[シリウスシンボリ]]とともに[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス]]への海外遠征が予定された。
 
海外遠征を控え、資金稼ぎと一部の風評があった[[宝塚記念]](阪神芝2200m)に出馬投票を行ったが、レース前日の土曜日の段階で左肩[[跛行]]により出走を取り消した。これは、シンボリルドルフが[[阪神競馬場]]の杜撰な芝の張替えによって芝がはがれてダートがむき出しになった部分であわや[[落馬]]かという転倒をしたことが原因である。このことに「コースの管理もできないような所は二度と走らせん」とオーナーの和田が激昂し、ニュースなどでも取り上げられた。ただしこの取り消しには別の事情もあり、出走を取り消す前に体調不良を察した野平と、あくまで出走させようとするシンボリ牧場場長の桐澤との間で意見が対立し、和田が妥協して出走を取り消すという経緯があった。結局この故障によりシンボリルドルフの海外遠征は取りやめとなり、[[シリウスシンボリ]]のみ渡欧。和田からは引退発言もでた<ref name="okabe153">『ルドルフの背』 p.153</ref>。
 
秋、天皇賞(秋)(東京芝2000m)はぶっつけ本番、当時不利とされていた[[東京競馬場]]芝2000メートルコース<ref>当時はスタート地点のコースは曲線状だったため大外は不利だった。</ref>の大外17番枠となるも1番人気となった。しかし出遅れてスタート直後は最後方、さらにハイペースの流れとなったにも関わらず、久しぶりでかかったのか、遅れを取り戻そうとしたのか、向こう正面で一気に好位にまで上がっていき、直線入り口では早くも先頭、暴走ではないかと場内は騒然となった。結局、直線なおも[[ウインザーノット (競走馬)|ウインザーノット]]らを競り落とすという、舌を巻く強さ<ref>『優駿』1985年12月 大川慶次郎</ref>を見せたものの、ゴール前で、13番人気の伏兵[[ギャロップダイナ]]の大外からの強襲を受け1/2馬身差の2着に敗れた。天皇賞(秋)敗退後、馬房のなかでシンボリルドルフが悔し涙にくれたという話が報道された。
 
前年に負けたジャパンカップは悪天候の[[馬場状態|重馬場]]での競走であったが無難にこなし、ジャパンカップ史上初の1番人気での優勝馬となった。2着にも[[地方競馬]]代表の[[ロツキータイガー]]([[大井競馬場|大井競馬]]所属)が入り、同じく史上初となる日本馬のワンツーフィニッシュとなった。表彰式で岡部は六冠を示すために手を手綱から離し、指を1本置いた。
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* シンボリルドルフの調教は、もっぱら野平自身が行った。当初は野平厩舎の調教助手であった[[藤沢和雄]]が行っていたが、野平があまりにも嬉しそうに騎乗する姿を見てやがて遠慮するようになった。
* 初期の産駒がデビューしたころはちょうど競馬ブームだったためか、デビュー前の産駒(ジングウオー)が[[東京スポーツ]]の一面を飾ったり、十冠ベイビーとして当歳時からスポーツ新聞(おもに[[サンケイスポーツ]])の紙面を賑わせた産駒([[メジロリベーラ]]/母:[[メジロラモーヌ]])がいたりした。
* 1990年度産駒のヤマトダマシイという馬は、新馬戦を勝利したあとの2戦目で故障し[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となった。管理していた調教師の藤沢和雄調教師は未だにその死を悔やんでいる。
* カメラがどういうものであるかを漠然とながら理解していたらしく、取材時にカメラを向けると自分からポーズをとってくれたという。
* 野平は「競馬には絶対はない。だがシンボリルドルフには絶対がある」と1985年の天皇賞・秋の敗戦後にも言い切った<ref name="okabe161" />。この言葉は後述のジャパンカップのCMでも引用されている。