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'''嵐山 光三郎'''(あらしやま こうざぶろう、[[1942年]][[1月10日]] - )は、[[日本]]の[[編集者]]、[[作家]]、[[エッセイスト]]。本名、'''祐乗坊 英昭'''(ゆうじょうぼう ひであき)。
父は、[[朝日新聞社]]社員から、[[多摩美術大学]]の教授に転じた、デザイナーの[[祐乗坊宣明]]。弟の[[祐乗坊進]]は[[造園コンサルタント]]で[[多摩美術大学]]講師
== 来歴
[[静岡県]][[浜松市]]に生まれ、[[1950年]]から[[東京都]][[北多摩郡]]国立町(現在の[[国立市]])に育つ。[[国立学園小学校]]卒業。小学校時代の同級生に、後の[[外務省]]・[[軍縮大使]]の[[登誠一郎]]、[[朝日新聞社]]の[[宮本貢]]がいた。
[[桐朋中学・高等学校]]を経て、[[1965年]]に[[國學院大學]][[文学部]][[国文科]]卒業。専攻は[[中世文学]]。また、[[笠井叡]]は高校の2年後輩で、大学時代に笠井から[[土方巽]]を紹介され、[[金粉ショー]]のアルバイトをやったこともある。大学時代の教師には[[丸谷才一]]、[[安東次男]]らがいた。
1965年、[[平凡社]]へ入社。当時の平凡社は「[[国民]][[百科事典]]」の売り上げが絶好調な時期であり、先代社長の[[下中弥三郎]]が他社において「争議活動」等で問題となった編集者を集めていたこともあり、編集部には奇人・変人・怪人がそろっていた。先輩編集者の[[谷川健一]]、[[林達夫]]、[[難波律郎]]、[[西巻興三郎]]らを知る。のち、『[[別冊太陽]]』と『[[太陽 (平凡社)|太陽]]』のそれぞれ[[編集長]]を務める。『太陽』の「[[年賀状]]の図案特集」はヒット企画となった。また、編集者として[[檀一雄]]や[[澁澤龍彦]]と親交を深める。[[深沢七郎]]には、特に影響をうけ、師匠と呼んでいる。
放漫経営のため平凡社が経営危機となった[[1981年]]、[[馬場一郎]]編集局長をトップに、[[筒井泰彦]]([[筒井ガンコ堂]])、[[渡邊直樹 (編集者)|渡邊直樹]]ら平凡社時代の部下らを率いて独立し、[[青人社]]を設立。翌年には『[[DoLiVe 月刊ドリブ]]』を創刊。
[[タモリ]]司会のテレビ番組『[[今夜は最高!]]』に、『月刊ドリブ』の宣伝も兼ねて出演。これがきっかけで、[[1982年]]からは『[[笑っていいとも!増刊号]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])に編集長としてレギュラー出演した。
[[2010年]]3月、[[国立市]]の[[教育委員]]に任命された。2012年[[日本文藝家協会]]理事。▼
2020年1月から土曜日の[[日本経済新聞]]夕刊「あすへの話題」に[[エッセイ]]を連載している。
== 人物 ==
趣味は料理で、「素人庖丁記」([[渡辺和博]]イラスト)を『週刊現代』に長年連載。
近年は、文学者たちの暴食ぶりを評した『文人悪食』『文人暴食』など、近代日本の文学者たちを、新鮮な切り口から捉えなおした本も多い。
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}}</ref>。南による装丁・挿絵も多い。[[友川カズキ]]は飲み仲間で、[[秋田弁]]が聞きたくて歌わせていた。適当な節回しの中で、代表曲の一つ「ワルツ」が生まれた。作家の[[石田千]]は元助手である。
▲[[2010年]]3月、[[国立市]]の[[教育委員]]に任命された。2012年[[日本文藝家協会]]理事。
== 受賞歴 ==
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