「小笠原信定」の版間の差分

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拠り所を無くした信定は兄とともに[[東海道]]を[[上洛]]し、当時畿内方面で勢力の大きかった[[三好氏]]を頼り客将となり、[[摂津国|摂津]][[芥川山城|芥川城]]に滞在した。三好家は小笠原一族の支流とされる。永禄11年([[1568年]])、[[将軍]][[足利義昭]]を奉じた[[織田信長]]によって芥川城を落城させられた。
 
永禄12年(1569年)、前将軍[[足利義栄]]を擁していた[[三好三人衆]]([[三好長逸]]・[[三好宗渭]]・[[石成友通]])らと共に、京の六条[[本圀寺]]に立て籠もった義昭を襲撃したが([[本圀寺の変]])、義昭を弑することは叶わず、将軍の急を聞きつけて救援に駆けつけた[[細川幽斎|細川藤孝]]、北河内国の[[三好義継]]、摂津国の[[池田勝正]]・[[伊丹親興]]らと三人衆側軍は京都の[[桂川 (淀川水系)|桂川]]で戦闘となり、信定は敗死した。
 
墓所は[[山城国]]成恩寺。子の長継は、[[小笠原貞慶]]・[[小笠原秀政|秀政]]父子に仕えた。