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{{改名提案|t=ノート:セレウコス朝|date=2021年5月}}
{{基礎情報 君主
|人名=デメトリオス1世
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|埋葬地=
|配偶者1=ラオディケ
|子女={{Collapsible list|title=一覧|アンティゴノス<br>[[デメトリオス2世ニカノル|デメトリオス2世]]<br>[[アンティオコス7世シデテス|アンティオコス7世]]}}
|王家=
|王朝=[[セレウコス朝]]
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== 生涯 ==
[[セレウコス4世]]とその妃であった[[ラオディケ4世]]の間の三男として生まれる。人質として[[共和政ローマ|ローマ]]に送られたため<ref name="Britannica">{{Britannica|biography|Demetrius-I-Soter|Demetrius I Soter}}</ref>ため、父王の没後はすぐに即位できず、その叔父の[[アンティオコス4世エピファネス|アンティオコス4世]]が王位についた<ref name="Losch385-386">{{Harvnb|Losch|2008|pp=385-386}}</ref>。[[紀元前162年]]、[[ポリュビオス]]の支援を受けたデメトリオスはローマから逃亡してシリアに戻り<ref name="Britannica"/>、アンティオコス4世の死後[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]の支持を受けて王位についていた従弟の[[アンティオコス5世エウパトル|アンティオコス5世]]とその摂政であった将軍の{{仮リンク|リュシアス (シリア摂政)|label=リュシアス|en|Lysias (Syrian chancellor)}}を処刑して即位した<ref name="Losch385-386"/>。
 
[[メディア王国|メディア]]の[[サトラップ]]であったが王を[[僭称]]独立を宣言した{{仮リンク|ティマルコス|en|Timarchus}}を打倒し<ref name="Britannica"/>[[バビロニア]]人をその専制から解放した。デメトリオス1世はバビロニア人から「[[ソテル]]」({{Lang-grc|Σωτήρ}}、救世主)の称号を奉られている。[[カッパドキア]]の王であった{{仮リンク|アリアラテス5世 (カッパドキア王)|label=アリアラテス5世|en|Ariarathes V of Cappadocia}}も打ち破り、[[マカバイ戦争]]で[[ユダ・マカバイ]]を戦死に追いやって<ref name="Losch385-386"/>シリアを自らの元に統一した。妃のラオディケは、全血姉妹の[[ラオディケ5世]]である可能性がある。
 
[[紀元前150年]]、アンティオコス4世の財務長官であったヘラクレイデス(ティマルコスの兄弟)は、アンティオコス4世の子とされる[[アレクサンドロス1世バラス|アレクサンドロス・バラス]]を擁立し、ローマ元老院の支持を得て挙兵した。デメトリオス1世は反乱軍に敗北して殺害された<ref name="Britannica"/><ref name="Shayegan60">{{Harvnb|Shayegan|2011|p=60}}</ref>。
 
== 出典 ==
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{{Commonscat|Demetrius I Soter|デメトリオス1世ソテル}}
 
{{先代次代|[[セレウコス朝]]第10代[[バシレウス|君主]]|[[紀元前162年]] - [[紀元前150年]]|[[アンティオコス5世エウパトル|アンティオコス5世]]|[[アレクサンドロス1世バラス|アレクサンドロス1世]]}}
{{Syria-stub}}
{{History-stub}}
{{Monarch-stub}}
{{People-substub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てめとりおす1}}