「大嘗祭」の版間の差分

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次代の[[中御門天皇]]の皇位継承時は、大嘗祭は斎行されなかった。これは、霊元上皇の在位中の勅約によるものとされる。続く[[桜町天皇]]の皇位継承時も、当初は幕府側からの申し出を朝廷側が辞退していたが、やがて朝廷側より[[新嘗祭]]の復興の申し出があり、これがきっかけとなり朝幕間の交渉の末、元文3年(1738年)、皇位継承から3年を経て大嘗祭が再び斎行され{{Refnest|group="注釈"|新嘗祭もまた、この翌年から例年斎行されるようになる。}}、以降、代替わりの度に途切れることなく大嘗祭が斎行されるようになった{{Sfn|古相|pp=74-75}}。
 
大嘗祭の斎行地は、[[奈良時代]]より[[平安時代]]初期の[[平城天皇]]の御代から、[[大内裏]]の南中央に位置した[[朝堂院#奈良時代|朝堂院]]の前庭にあった竜尾壇の庭が用いられた。平安時代末期に朝堂院が焼亡して以降も、おおよそ[[大極殿#長岡京・平安京の大極殿|大極殿]]の旧地の龍尾壇下に建てられた。[[安徳天皇]]の際には、[[福原京]]への一時遷都や[[高倉上皇]]の崩御などによって延引された末、[[後白河天皇|後白河上皇]]の裁定によって寿永元年(1182年)に斎行されたが、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)の最中であるなどの時局により、斎行場所は紫宸殿になった{{Sfn|加瀬|pp=58-59}}。[[東山天皇]]の再興時には、大極殿址も明らかでなかったためか、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、[[明治]]に至った。明治期は、明治天皇の践祚が明治維新に伴う[[東京奠都]]と重なって延引した影響で変則的になり、即位礼は紫宸殿で行われたが、大嘗祭は[[東京]]の[[吹上御苑|吹上御所]]で行われた。[[大正]]・[[昭和]]の時は「[[登極令]]」に拠って京都の[[大宮御所]]内の旧[[仙洞御所]]の御苑が用いられた<ref>『神社のいろは要語集 祭祀編』、監修・[[神社本庁]] p.266 ISBN 978-4-594-07193-6</ref>。平成以降は、再び東京・皇居の皇居東御苑にて斎行されている。
 
* [[江戸時代]]の再興の際には古式に則って、[[仏教]][[僧]][[尼]]の御所への出入りを禁じて歴代天皇の[[位牌]]を撤去すべきとした[[霊元天皇|霊元上皇]]や[[摂政]][[一条冬経]](兼輝)と、これに反対した上皇の実兄[[堯恕法親王]]や[[左大臣]][[近衛基熈]]らが対立した。この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれる度に[[国学]]や[[尊王論]]の高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していた[[神仏習合]]の慣習に対する批判および排仏論やこれに付随する[[即位灌頂]]の是非の論議にも発展して、明治における宮中の[[神仏分離]]の遠因となったとする見方もある<ref>山口和夫「神仏習合と近世天皇の祭祀」(初出:島薗進 他編『シリーズ日本人と宗教1 将軍と天皇』(春秋社、2014年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P352-356)</ref>。