「ロヴロ・フォン・マタチッチ」の版間の差分

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[[クロアチア]]北西部の港町{{仮リンク|スシャク|en|Sušak, Rijeka}}(当時は[[クロアチア・スラボニア王国]]<small>([[ハンガリー王国]])</small>[[モドルシュ・フィウメ県]]<small>([[:en:Modruš-Rijeka County|Modrus-Fiume]])</small>、のちにハンガリー王国の重要な海港である[[リエカ]]市の一部)に生まれる。
 
17世紀初頭に貴族に叙された家系で、軍人や役人を輩出してきた。9歳の時、[[ウィーン少年合唱団]]に入団、その後、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽アカデミー]]と[[:de:Konservatorium Wien Privatuniversität|ウィーン市立音楽院]]で学ぶ。[[1918年]]、[[ケルン歌劇場]]の副指揮者を皮切りに[[1933年]]には[[ザグレブ歌劇場]]の第1指揮者、[[1938年]]には[[ベオグラード歌劇場]]の音楽総監督を歴任し、ヨーロッパ各地のオーケストラ、歌劇場に客演した。その間の[[1936年]]には初めて[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮する。しかし、[[第二次世界大戦]]中は[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]率いる[[ゲリラ|パルチザン]]に反抗し、[[クロアチア独立国軍]]の軍楽隊のインスペクターを務めるなど、親独・親[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]主義者として活動、大戦後もチトーに反対し続ける態度を取ったため、投獄され死刑を宣告される。その死刑当日に収容所所長にピアノを弾くことを命令され、それを聴いた所長が「芸術家を死刑にするのは忍びない」と処刑だけは免れた(ちなみに、マタチッチ夫人はこの所長の愛娘であるが、他に3人いたと言われている)<!--「N響アワー」2001年4月放送分による-->。ただ、「ナチ協力者」のレッテルは剥がし難く、しばらく活動停止を余儀なくされた。[[1954年]]ごろから活動を再開、[[1956年]]に[[ゼンパー・オーパー|ドレスデン国立歌劇場]]、[[1961年]]には[[フランクフルト歌劇場|フランクフルト市立歌劇場]]音楽総監督に就任した。[[1959年]]には[[バイロイト音楽祭]]で「[[ローエングリン]]」を振る。また、[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]との結びつきや後述する日本との縁も深くなる。[[1970年]]には故郷[[ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者([[1982年]]まで。後に終身名誉指揮者)、[[1974年]]から5年間は[[モンテカルロ歌劇場]]音楽総監督に就任。この頃から体調を崩し始め、また巨躯がたたって歩行困難となる。[[1984年]]に[[NHK交響楽団]]と[[プラハの春音楽祭|プラハの春国際音楽祭]]に出演後実質活動を停止し、[[1985年]][[1月4日]]にザグレブで亡くなった。
 
その実力に比して、録音の数は決して多いとは言えないが、近年はALTUSレーベルから、[[NHK交響楽団]]を指揮した演奏会のライヴ録音が継続的にリリースされている。意外なところでは[[フランツ・レハール|レハール]]の「[[メリー・ウィドウ]]」の名録音を残しており(バルカン半島の架空の小国の駐仏公使館を舞台にした作品なので、無縁とはいえない)今に至るも代表盤の一つに数えられている。