「死海文書」の版間の差分

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=== 研究の転機 ===
[[File:Qumrán.jpg|thumb|200px|left|クムラン遺跡]]
[[1972年]]に死去したド・ヴォーの後を継いで[[1972年]]に{{仮リンク|ピエール・ベノワ (考古学者)|en|Pièrre Benoit (archaeologist)|label=ピエール・ベノワ}}が委員会のリーダーになると、作業の遅れが公然と非難されるようになる。1972年[[8月9日]]付の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は死海文書を特集し、その中で新しい編集主幹は公刊の遅れによる「民衆の怒りを避けるよう」努力することを薦めた。しかし、ベノワが委員会の代表をつとめていた12年の間に出版されたのはわずか2冊のDJDだけであった。ベノワは健康上の問題を理由に1984年に辞任、{{仮リンク|ジョン・ストラグネル|en|John Strugnell}}が後を継いだが、その頃には委員会はメンバーが亡くなったり、辞任したりで人材が枯渇しており、委員会の実務能力はないに等しかった<ref>『解き明かされた死海文書』、p94</ref>。
 
[[1987年]]は死海文書発見40周年の記念であったため、各国から死海文書研究と原典公刊の遅延を非難する声が再び巻き起こった(特に第4洞窟の文書の内容がまったく明らかにされていないことに世論の不満が高かった)。これを受けてフランス聖書・考古学研究所は{{仮リンク|ジャン・バッティスト・アンベール|en|Jean-Baptiste Humbert}} (Jean-Baptiste Humbert) をリーダーにした調査チームを立ち上げ、ド・ヴォーが残した死海文書とクムラン遺跡に関する膨大な調査記録の編纂を開始した(ド・ヴォーはクムラン遺跡発掘の報告書をまったく出版できずに世を去っていた)<ref>『死海文書入門』、p40</ref>。