「ベルリンの壁崩壊」の版間の差分

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===マスメディアの報道 ===
東ドイツでは言論統制で出版物や新聞・雑誌の発行及び西側からの持ち込みも禁止されていたが、唯一電波だけは防止することができなかった。東ドイツ領内の中心に位置するベルリンの西側から電波を発信していて東ベルリン120万人が西ドイツ側の全国ネットのテレビ放送局西[[ドイツ公共放送連盟]](ARD)と[[第2ドイツテレビ|2ドイツテレビジョン協会]](ZDF)を視聴できた。この他に西ベルリンを含む東西ドイツ国境沿いで8カ所のテレビ塔を立てて東ドイツ国内に自国のテレビ番組が見られるように電波を飛ばしていて<ref group="注">ベルリンでは電波が相互に[[スピルオーバー]]するため、という言説は正確ではない。余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。</ref>、南東部のライプツィヒやドレスデン一帯には地上波は届かなかったが(その代わりパラボラアンテナで衛星放送が受信できた)、およそ東ドイツの7割近くが受信可能であった{{Sfn|本村|pp=118-119}}。
 
この11月9日夜の記者会見の模様は、[[ドイツテレビジョン放送|東ドイツ国営テレビ]]の[[報道番組|ニュース番組]]において[[生放送]]されていた。東ベルリンも西ベルリンのテレビ電波が受信できるので東西市民は互いの[[テレビ番組]]を視聴することが可能であった。
 
またラジオも同様であった。西ベルリン市内に中継局が存在する西ドイツラジオ局の他、夜になると[[電離層]]反射で遠くイギリスやスウェーデンの放送も受信することができた。短波放送に至っては[[アメリカ合衆国]]や[[日本]]のものさえ受信可能のケースがあった。
 
そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後には[[ロイター通信]]・[[ドイツ通信社|ドイツ通信]](DPA)・[[AP通信]]の各通信社は速報を出した。混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している{{Sfn|ヒルトン|p=187}}。7時17分に西ドイツのテレビ局[[第2ドイツテレビ|ZDF]]がニュース番組「[[ホイテ]](今日)」で放送し、7時30分からの東ドイツ国営テレビのニュース番組「[[アクテュエレ・カメラ]](今日の映像)」では2番目にこのニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけであった。
 
しかし7時41分に[[ドイツ通信]](DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」と打電し、そして午後8時に西ドイツのテレビ局[[ドイツ公共放送連盟]](ARD)ARDがニュース番組「[[ターゲスシャウ]]」で冒頭にアンカーマンのハンス=ヨアヒム・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した<ref>ヴィクター・セベスチャン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』510P</ref>。またほぼ同時刻に、記者会見の場で質問に立ったアメリカ[[NBC]]のトム・ブロコウ記者が、ブランデンブルク門の所にある検問所付近の壁を前にして「これは歴史的な夜です。東ドイツ政府がたった今、壁の向こうへ通行できると宣言しました。何の制限も無しです。」とNBC放送の電波に乗せて全米にレポートした<ref>H・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」489P</ref>。
 
=== 国境検問所 ===