「魏 (三国)」の版間の差分

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[[212年]]、曹操は孫権征伐の軍を起こしたが、一月余り対峙した後撤退した([[濡須口の戦い#第一次戦役(212年-213年)|第一次濡須口の戦い]])。
 
[[213年]]、曹操は十郡([[河東郡 (中国)|河東郡]]・[[河内郡 (河南省)|河内郡]]・[[魏郡]]・[[趙郡]]・[[中山郡]]・[[常山郡]]・[[鉅鹿郡]]・[[信都郡|安平郡]]・[[清河郡|甘陵郡]]・[[平原郡 (山東省)|平原郡]])をもって魏公に封じられた<ref>{{cite book |和書 |author1= [[池田恩]]編 |author2= 当該部分の執筆は[[窪添慶文]] |year = 1996 |title = 世界歴史体系 中国史2 |publisher = [[山川出版社]] |page=9 |isbn = 4-634-46160-9 }}</ref>。[[216年]]、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「[[諸侯王|王]]」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。
 
[[215年]]、曹操は[[漢中郡|漢中]]の[[張魯]]を降伏させた([[陽平関の戦い]])。その後、曹操軍は数年間にわたり、[[益州]](蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。