「長谷部言人」の版間の差分

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{{Infobox 学者
|名前=長谷部言人
|画像=Hasebe Kotondo 2.jpg
|画像サイズ=180px
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[[直良信夫]]が[[兵庫県]][[明石市]]西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を研究し、それを原人の骨と唱え、「[[明石原人]]」と命名した。
 
== 業績 ==
== 旧石器時代人種論 ==
[[ファイル:Forms of Pottery by Hasebe Kotondo.png|280px|右|thumb|長谷部言人による「器形による土器の器種分類」
----
1.甕形土器、2.壺形土器、3.深鉢形土器、4.浅鉢形土器、5.皿形土器、6.高坏形土器
]]
 
=== 旧石器時代人種論 ===
長谷部は東北大に移って後の[[1919年]]に、河内国府遺跡の発掘に参加したのを契機として、同年岩手県大般渡市細浦貝塚、[[1925年]]には同市大洞貝塚等を発掘し、石器時代人骨の研究に没頭していった。戦前の昭和時代の日本人種論は、長谷部と[[清野謙次]]の学説を2大潮流としている。ともに、石器時代人日本人説であることは同じであり、明治大正時代以来有力であったアイヌ人説を否定した。
 
日本人の年代的変化を綿密に分析し、この長谷部の日本人説を発展させ、変化説を強化したのが、高弟の[[鈴木尚]]であった。
 
=== 円筒土器文化論 ===
[[1925年]][[山内清男]]を助手に迎えて[[大洞貝塚]]を発掘調査し、さらに[[青森県]][[八戸市]][[一王寺貝塚]]を調査して、山内が調査した[[青森県]][[北津軽郡]]市浦村[[オセドウ貝塚]]出土の[[土器]]の様相を総合し、『人類学雑誌』42-1([[1927年]])の論文で「陸奥・羽後・北海道の[[石器時代]][[遺跡]]から出土する[[円筒土器]]によって代表される文化の担い手を、短頭に近い頭形をもち、関東人に比べてやや高身長である現代奥羽人の祖先とみなし、石器時代人を同地域に居住する現代人の直接の先祖である」という考えを固めるにいたり、日本人および[[アイヌ]]が石器時代人と、それぞれ異なる民族との混血により生じたとする当時の清野説に疑問を投じている。
 
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