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'''大宝律令'''(たいほうりつりょう)は、[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)に制定された[[日本]]の[[律令]]である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。[[唐]]の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、[[日本史]]上初めて律と令が揃って成立した本格的な[[律令]]である。史料上はあくまで、「新令」、「新律」と呼ばれ、当時、「大宝律令」という名称があった訳ではない<ref>渡辺晃宏 『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 講談社 2001年 p.45</ref>
 
大宝律令は、[[日本史]]上初めて律と令が揃って成立した本格的な[[律令]]である。史料上はあくまで、「新令」、「新律」と呼ばれ、当時、「大宝律令」という名称があった訳ではない<ref>渡辺晃宏 『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 講談社 2001年 p.45</ref>。
 
== 成立 ==
大宝律令に至る律令編纂の起源は[[681年]]まで遡る。同年、[[天武天皇]]により律令制定を命ずる[[詔]]が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に[[飛鳥浄御原令]]が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な[[律令法]]であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
 
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、[[700年]](文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]])、大宝律令として完成した。日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令をおいて他に例がない<ref>日本歴史大辞典編集委員会編著 『日本歴史大辞典』 [[河出書房新社]]、1979年、大寶律令の項</ref>。大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、[[忍壁皇子|刑部親王]]・[[藤原不比等]]・[[粟田真人]]・[[下毛野古麻呂]]らである
 
日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令をおいて他に例がない<ref>日本歴史大辞典編集委員会編著 『日本歴史大辞典』 [[河出書房新社]]、1979年、大寶律令の項</ref>。大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、[[忍壁皇子|刑部親王]]・[[藤原不比等]]・[[粟田真人]]・[[下毛野古麻呂]]らである。
 
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は[[明法博士]]を[[西海道]]以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌[[702年]](大宝2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]])、[[文武天皇]]は大宝律を諸国へ頒布し、[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]には大宝律令を諸国に頒布した。
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== 意義 ==
7世紀後半以降、[[百済]]の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、[[近江令]]、[[飛鳥浄御原令]]を制定するなど、当時の政権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の[[律令制]]が成立したとされている。大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域<ref group="注">[[東北地方]]を除く[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]の大部分</ref> にほぼ一律的に及ぶこととなった。
 
大宝律令の意義として第一に挙げられるのは、中国(唐)の方式を基準とした制度への転換にある。前述の冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に代わっている。また、地方行政単位の「評」も、中国で地方行政組織の名称として使われてきた「郡」に用字を変えている。遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する<ref>鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』83頁</ref>。
これにより、日本の[[律令制]]が成立したとされている。大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域<ref group="注">[[東北地方]]を除く[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]の大部分</ref> にほぼ一律的に及ぶこととなった。
 
大宝律令の意義として第一に挙げられるのは、中国(唐)の方式を基準とした制度への転換にある。前述の冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に代わっている。
 
また、地方行政単位の「評」も、中国で地方行政組織の名称として使われてきた「郡」に用字を変えている。遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する<ref>鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』83頁</ref>。
 
== 内容 ==
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。[[刑法]]にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の[[行政法]]および[[民法]]などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
 
この律令の制定によって、[[天皇]]を中心とし、[[日本の官制|二官八省]]([[神祇官]]、[[太政官]] - [[中務省]]・[[式部省]]・[[治部省]]・[[民部省]]・[[大蔵省 (律令制)|大蔵省]]・[[刑部省]]・[[宮内省]]・[[兵部省]])の[[官僚]]機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には[[元号]]を使うこと、[[印鑑]]を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
 
役所で取り扱う文書には[[元号]]を使うこと、[[印鑑]]を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
 
また[[古代日本の地方官制|地方官制]]については、国・郡・里などの単位が定められ([[国郡里制]])、中央政府から派遣される[[国司]]には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた[[郡司]]にも一定の権限が認められていた。