「ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)」の版間の差分

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1085年には、オーストリアにあった領土までも手放さなくてはならなくなったが、[[マインツ]]の王国会議でハインリヒ4世はボヘミアとポーランドの王位をヴラチスラフ2世に授けた。ポーランド王位がポーランド全域に対して実効性があったわけでは決してないが、この称号はシュレージエン地方が確実にボヘミア領に組み込まれたことを意味し、相当な威信を獲得することが出来たのである。[[1086年]][[6月15日]]、ヴラチスラフ2世はプラハで[[トリーア大司教]]エーギルベルトによって、ボヘミア王(ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世)として戴冠された。
 
ヴラチスラフ2世の晩年の統治は、ボヘミアにもモラヴィアにも権威が行き届き安定したものであった。しかし、弟[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート・フォン・ブリュン]]や、長男[[ブジェチスラフ2世]]との対立は先鋭化した。1092年に狩りの途中の事故で落馬して亡くなり、遺体は[[ヴィシェフラット]]に葬られた。2度の結婚により4人の息子がいたが、彼らは父の死後すぐに後継者争いを始め、ボヘミア王位は消滅した。ボヘミア王位が復活するのは3男[[ヴラジスラフ1世]]の孫である曾孫[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]の代である。
 
== 子女 ==
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