「ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)」の版間の差分

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父と同じく[[ホーエンシュタウフェン朝]]に従い、[[1246年]]に義兄の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]を助けて[[対立王]][[ハインリヒ・ラスペ]]と戦った。[[1251年]]には[[レーゲンスブルク]][[司教]]とも戦っている。
 
[[1253年]]、父の遺領を相続。しかし、弟のハインリヒ13世と仲違いしてしまい、[[1255年]]に領土を分割、ライン宮中伯はルートヴィヒ2世の手元に残されたが、バイエルンは2分割、下バイエルンをハインリヒ13世に分け与える羽目になった。この状況を見て[[1257年]]に[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]がバイエルンに遠征したが、ルートヴィヒ2世はハインリヒ13世と協力してボヘミア軍を撃退している。
 
一方、[[神聖ローマ帝国]]はコンラート4世が[[1254年]]に死去して[[大空位時代]]に入った。ルートヴィヒ2世はコンラート4世の遺児[[コッラディーノ]]を保護するも、コッラディーノが[[イタリア]]で敗死すると[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]に与してオタカル2世に対抗、オタカル2世はルドルフ1世に討ち取られた。[[1289年]]に[[選帝侯]]が7人に決められ、バイエルン公はボヘミア王に選挙権を譲ることに決まったものの、ライン宮中伯のルートヴィヒ2世も選ばれた([[金印勅書]]で法的に決められるのは[[1356年]])。ルドルフ1世の死後、[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]を支持したが、他の諸侯は[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]を選んだため、実現しなかった。