「フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)」の版間の差分

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[[ニュルンベルク]]西部カードルツブルク周辺を領したが、[[1248年]]に[[アンデクス家]]の遺産である[[バイロイト]]周辺地域([[アンデクス]]伯領)を相続した。これにより、やはり相続請求権を有した他の貴族達と争うようになった。彼は[[ローマ王|ドイツ王]][[ウィレム2世 (ホラント伯)|ヴィルヘルム・フォン・ホラント]]の支持を得たが、父の代から[[1254年]]まで[[シュヴァーベン]]系ツォレルン家がそうであったように、彼自身は親[[ホーエンシュタウフェン朝|シュタウフェン家]]政策を堅持した。
 
1261年の父の死後にニュルンベルク城伯を継いだフリードリヒ3世は、これを拠点に[[フランケン地方|フランケン]]系家門の勢力を[[マイン川]]流域にまで拡大しようと図り、[[ヴュルツブルク]][[司教]]及び[[バンベルク]]司教の激しい抵抗に遭った。[[1273年]]には個人的な交誼から[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]のドイツ王選出を支持した。これに対してルドルフ1世は、フリードリヒ3世を諸侯のうちとして、丁重な態度で接した。また、帝国の軍務にも頻繁に参加していたなどの功績から、ルドルフ1世からフランケンの裁判所を任せられた。[[ボヘミア王国|ボヘミア]]とは[[エーガー川]]流域の覇権を巡って争っており、[[1278年]]の[[デュルンクルト]]近郊で行われた[[プシェミスル朝|プシェミスル家]]の[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]との[[マルヒフェルトの戦い]]にも参戦している。同じ頃、[[ヴンジーデル]]、[[エアランゲン]]、[[アルツベルク]]と行った地域もホーエンツォレルン家の統治下に入った。
 
1297年に亡くなると、一旦は3男の[[ヨハン1世 (ニュルンベルク城伯)|ヨハン1世]]が家督を継いだが、[[1300年]]にはヨハンも亡くなり、末子の[[フリードリヒ4世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ4世]]に引き継がれた。