「マヘンドラ・ビール・ビクラム・シャハ」の版間の差分

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[[1950年]]、父王トリブバンとともにラナ家の監視から逃れるため、インドへと亡命した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.607</ref>。その際、マヘンドラの息子[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]が一時的に宰相のラナ家によって王として祭り挙げられた<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.608</ref>。翌年、父とともにインドへの帰還を果たした<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.610</ref>。
 
[[1955年]][[3月13日]]、父王トリブバンが死亡崩御したことにより、王位を継承する<ref>[http://www.royalark.net/Nepal/nepal11.htm Nepal 11]</ref>。
 
[[1959年]]、[[憲法]]を公布してネパール初の[[総選挙]]を実施した。選挙の結果[[ネパール会議派]]が大勝し、[[ビシュエシュワル・プラサード・コイララ]]内閣が誕生した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.645</ref>。
マヘンドラは諸外国との国交樹立に精力的だった。1956年には[[スイス]]と、1957年4月には[[エジプト]]と、同年7月に[[スリランカ]]と国交を樹立した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.641</ref>。また、[[インド]]を牽制する目的で、[[パキスタン]]とも外交を樹立した<ref>佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.641</ref>。それより先、1955年には[[中華人民共和国|中国]]とも国交を樹立し、1961年にネ中国境条約を結んだ。
 
[[1972年]][[1月31日]]、[[バラトプル]]で死去崩御した<ref>[http://www.royalark.net/Nepal/nepal11.htm Nepal 11]</ref>。
 
==脚注==