「ガイウス・ファンニウス」の版間の差分

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歴史家F. ミュンツァーによれば、ファンニウスは[[紀元前130年]]と[[紀元前129年]]に執政官選挙に立候補したが落選したとしている<ref name = R11 />。スキピオが紀元前129年に没すると、「スキピオ・サークル」は政治的意義を失い、ファンニウスも旧友達の支援を頼りにすることができなくなった<ref>Zaborovsky Y., 1977, p. 189.</ref>。彼が執政官となったのは[[紀元前122年]]のことで、[[護民官]][[ガイウス・グラックス|ガイウス・センプロニウス・グラックス]]の動きが大きく作用した<ref name="プルタルコス『対比列伝:ガイウス・グラックス』、8">プルタルコス『対比列伝:ガイウス・グラックス』、8</ref>。グラックスは[[元老院]]の権力を弱めようとしており、執政官選挙運動へも介入したが、これが他の候補者よりファンニウスに有利に働き、特に「元老院派」の[[ルキウス・オピミウス]]の当選のチャンスを奪ったのだ<ref>プルタルコス『対比列伝:ガイウス・グラックス』、1</ref>。グラックス自身も連続して護民官に当選していた。
 
同僚執政官は、プレブスの[[グナエウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前122年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アノバルブス]]であったが、アノバルブスは任期中ガリアに遠征していたため、ファンニウスは首都ローマで大きな権力を握った<ref name = R15 /><ref>Broughton T., 1951 , p.516.</ref>。グラックスと元老院の確執は激しさを増していたが、ファンニウスは元老院を支持した。このため、グラックスが提出した幾つかの法案の投票日の前日、その支援者を減らすために[[イタリック人|ローマ人以外のイタリア人]]の首都退去を命令した<ref>プルタルコス『対比列伝:ガイウス・グラックス』、2</ref>。一連の法案の中で最も重要なものは、すべての[[ラテン人]]に[[ローマ市民権]]を与え、すべての同盟都市に[[ラテン市民権]]を与えるというものだが、ファンニウスはこれに反論するための「微妙で崇高な」演説を行った<ref>キケロ『ブルトゥス』、99</ref>。その中で、ファンニウスはローマ市民に問いかけている。
 
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{{s-bef|before=[[ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前123年の執政官)|ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス]]<br />[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス]]}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]|years=''同僚:[[グナエウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前122年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アノバルブス]]''<br />[[紀元前122年]]}}
{{s-aft|after=[[ルキウス・オピミウス]]<br />[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アッロブリギクス]]}}
{{s-end}}