「マルクス・ユニウス・シラヌス」の版間の差分

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紀元前109年の同僚執政官は、同じくプレブスの[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクス|クィントゥス・カエキリウス・メテッルス]](後のヌミディクス)であった<ref>Broughton, 1951, p. 545.</ref>。メテッルスは[[ユグルタ戦争]]を担当し、シラヌスは[[ガリア・ナルボネンシス|ガリア・トランサルピナ]]に派遣され、[[ゲルマン人]]の[[キンブリ族]]に備えることとなった。キンブリ族は定住を求めたが、シラヌスがこれを拒否したため、戦闘となった。詳細は不明であるが、シラヌスは敗北した。フロルスはローマ兵は敗走し、野営地も占領されたと書いている<ref>フロルス『700年全戦役略記』、 I, 38, 4.</ref>。[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]の『[[ローマ建国史]]』<ref>リウィウス『ローマ建国史』、Periochae 65.2.</ref> と[[ウェッレイウス・パテルクルス|パテルクルス]]の『ローマ世界の歴史』も<ref>パテルクルス『ローマ世界の歴史』、II, 12, 1.</ref>、シラヌスの敗北を記している。ただ、[[エウトロピウス]]のみがシラヌスが勝利したとしているが<ref>エウトロピウス『首都創建以来の略史』、IV, 27, 5.</ref>、これは明らかに間違いである<ref name = R10 />。
 
[[紀元前104年]]、護民官[[グナエウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前96年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アノバルブス]]はシラヌスを告訴した<ref>キケロ『カエキリウス訴追者決定弁論』、67.</ref><ref>キケロ『ウェッレース弾劾演説』、II, 117.</ref>。しかし、シラヌスは圧倒的多数で無罪となった。その後のシラヌスに関する記録はない<ref>Iunius 169, 1918 , s. 1095.</ref>。
 
== 子孫 ==