「ルキウス・アエミリウス・パウッルス (紀元前50年の執政官)」の版間の差分

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パウッルスが現存資料に登場するのは[[紀元前63年]]である。[[ルキウス・セルギウス・カティリナ]]の反乱の噂が流れ、パウッルスはカティリナを暴力的行為の罪で告訴している<ref>サッルスティウス『カティリーナの陰謀』、31, 4.</ref>。カティリナ本人はローマから脱出し、その後戦死したために、この裁判は行われることがなかった<ref name = R13>Aemilius 81, 1893, s. 564.</ref>。翌年、パウッルスは造幣官を務め、表に[[コンコルディア (ローマ神話)|コンコルディア女神]]、裏に降伏した[[アンティゴノス朝|マケドニア]]王[[ペルセウス (マケドニア王)|ペルセウス]]とその息子2人を刻んだ<!--? 10-->[[デナリウス]]銀貨を鋳造している。これはカティリナに対する勝利の記念(コンコルディア神殿で行われた元老院会議で、カティリナの共謀者の処刑が決定されている)と、彼の先祖の功を称えるものであった<ref>Ryazanov , For pacifying the rebellion.</ref>。
 
[[クルスス・ホノルム]](名誉のコース)の第一歩である[[クァエストル]](財務官)には[[紀元前59年]]に就任した<ref>Broughton, 1952, p. 190.</ref>。[[マケドニア属州]]総督ガイウス・オクタウィスス([[アウグストゥス]]の実父)の下で勤務している。このときローマではルキウス・ウェッティスという人物が、[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]暗殺計画があると触れ回った。共謀者には経験豊富な政治家である[[マルクス・カルプルニウス・ビブルス]]、[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス]]、[[ルキウス・ドミティウス・アノバルブス (紀元前54年の執政官)|ルキウス・ドミティウス・アノバルブス]]、さらにはこのときはまだ若かった[[ガイウス・スクリボニウス・クリオ]]、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル、さらにはパウッルスが含まれるとした。しかし誰もこの話を信じず、ウェッティスは牢獄で死亡した<ref name = R13 /><ref>Egorov, 2014 , p. 152-153.</ref><ref>Rossi, 1951, p. 248-250.</ref>。
 
[[紀元前57年]]、追放されていた[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]のローマ帰還を認める法案が提出されるが、パウッルスも賛成している<ref>キケロ『友人宛書簡集』、XV, 13.</ref>。[[紀元前56年]]には、暴動を組織したとして告発されたプブリウス・セスティウスの裁判に出廷し、被告側証人[[プブリウス・ウァティニウス]]を告訴する意向を表明した<ref>キケロ『弟クィントゥス宛書簡集』、II, 4.</ref>。その後も順調に出世し、紀元前55年には[[アエディリス|アエディリス・クルリス]](上級按察官)に就任した<ref>Broughton, 1952 , p. 216.</ref>。この職権で、先祖の[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年の執政官)|マルクス・アエミリウス・レピドゥス]] (紀元前187年執政官)が建てた[[フォロ・ロマーノ|フォルム]]の[[バシリカ・アエミリア]]の再建に着手した<ref>キケロ『アッティクス宛書簡集』、IV, 16, 8.</ref>。[[紀元前53年]]には[[プラエトル]](法務官)に就任する<ref>Broughton, 1952 , p. 228.</ref>。