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[[摂津国]][[大阪市|大坂]]出身([[山城国]]とも、詳しい出身地は不明)で、生家は医家または薬種問屋とされる。
 
[[京都|京]]に長く暮らしており、[[文久]]3年([[1863年]])末頃に新選組に入隊、[[元治]]元年([[1864年]])頃から隊士の動向調査や情報探索の任についている。非常に有能で文筆の才能を認められて、入隊後数ヶ月で上役を任され、後に隊内では異例の諸士調役・監察を掛け持つようになる。[[京都|京]]・大坂に土地があり、道案内としてたびたび幹部達を大坂に引き連れていたという。また、大坂の金持ちの商人の事情にも通じており、山﨑の仲介により幹部たちが隊の資金調達をしていた事等から、新選組の中では重宝されていた。香取流の[[棒術]]にすぐれていたとされ、実際に使用していたものは[[長巻]]であるとの説もある。性格は温順にして無口で、背が高く、色黒(色白という説も)な美男子だったという。京都で隊士の診療を行っていた[[松本良順]]から[[医学]]を学び、「我は新選組の医者なり」と言って周囲を笑わせたという記録が良順の書に残っている。またそこには、「(近藤)勇の最も愛する者なりし」と記述されている。
 
元治元年6月の[[池田屋事件]]の時は諸士調役兼監察として[[島田魁]]らと長州藩士や[[尊攘]]過激派の探索にあたり、尊攘過激派の一人、[[古高俊太郎]]宅・枡屋を突き止めている。枡屋は[[宮部鼎蔵]]ら大物志士の密会所となっており、宮部の下僕・忠蔵を尾行し所在を突き止めたとされる。その結果、新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功した。しかし、この武功に対して、各隊士たちが報酬を受けているにも関わらず、山﨑の名前が書かれていないため、[[子母沢寛]]や[[司馬遼太郎]]の創作との説もある(ただし、報酬を受けている島田の日記には探索したメンバーに山﨑の名前が入っている)。