「仁烈王后」の版間の差分

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[[光海君]]15年(1623年)、[[西人派]]のクーデターで光海君が廃位され、綾陽君が「仁祖」として即位、長年内助の功で導いた清城夫人も同時に王妃となった<ref name="王妃たちの朝鮮王朝 P.218">『王妃たちの朝鮮王朝』P.218</ref>が民心を得ることを忘れず、前王妃・柳氏を慕う女官らの気配りも怠らなかった<ref name="王妃たちの朝鮮王朝 P.218">『王妃たちの朝鮮王朝』P.218</ref>。その中で歴代王妃に仕え、前王妃を慕った女官・韓宝香の忠誠心を仁烈王后は称え3男・麟坪大君の養育を任せた<ref name="王妃たちの朝鮮王朝 P.219">『王妃たちの朝鮮王朝』P.219</ref>。
 
仁祖13年12月(1636年1月)、仁烈王后は42歳の高齢で身籠ったが死産、彼女も薨去した。死後、国喪に際して[[清国]]では弔問使として戸部承政・[[イングルダイ]]と参政・[[マフタ]]を朝鮮に派遣し、[[ホンタイジ]]の皇帝即位も通報させた。これに拒否反応を示した朝鮮朝廷は清の使節団を門前払いし、帰国の途にいたイングルダイが清との絶交を強調した仁祖の檄文まで奪取する事件が起き、両国関係は破局に追い込まれた。この時の事件は翌年に勃発した[[丙子の乱]]の直接的な切っ掛けとなった。
 
丙子の乱が勃発すると、清の侵攻を受け朝鮮は荒廃し仁祖をはじめ仁烈王后の実子らが人質になる悲劇に見舞われた<ref name="王妃たちの朝鮮王朝 P.225">『王妃たちの朝鮮王朝』P.225</ref>。