「ゲーザ1世 (ハンガリー王)」の版間の差分

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| 王朝 = [[アールパード朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[ベーラ1世 (ハンガリー王)|ベーラ1世]]
| 母親 = リグザ
| 宗教 =
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== 生涯 ==
のちの[[ベーラ1世 (ハンガリー王)|ベーラ1世]]の長男として、父の亡命先の[[ポーランド王国|ポーランド]]宮廷で誕生した。ゲーザという名前は異教徒の名前であったらしい。彼は[[マグヌス]](Magnus)という名で[[洗礼]]を受けているからである。[[1048年]]、父ベーラは[[アンドラーシュ1世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ1世]]よりハンガリー王国の3分の1に相当する公領を授けられたため、家族を連れて帰国した。[[オルセオロ・ペーテル]]王から王位を奪ったアンドラーシュは、弟ベーラとともにペーテルの同盟者・[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]軍と対峙、撃退に成功する。しかし、父と伯父の関係は、従弟シャラモン(のちの[[シャラモン (ハンガリー王)|シャラモン]]王)が生まれてから悪化する。アンドラーシュは幼児のシャラモンを後継者に指名したためである。アンドラーシュが確立しようとした長子相続制とは反対に、ハンガリーでは一族の年長者が後継となる男系年長者相続制が未だ根強かった。[[1059年]]、ゲーザは父や弟たちとともにポーランドへ向かった。
 
[[1060年]]、ポーランド軍を加えた大軍で、ベーラとゲーザらはハンガリーへ侵入した。迎え撃ったアンドラーシュ1世を敗死に追い込み、ベーラが即位した。ゲーザは父に従い、シャラモンの正当性を支持する皇帝軍が侵攻してくるとこれを撃退している。ベーラが在位わずか3年で死去すると、ゲーザは皇帝の後ろ盾を得ているシャラモンの即位を受け入れ、自身は父のかつての公領を継承した。しかしシャラモン王はゲーザたちを冷遇したため、彼らは再びポーランドへ亡命した。