「バサラブ3世ライオタ」の版間の差分

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1456年8月にバサラブ3世の兄弟で[[ダネシュティ家]]のワラキア公[[ヴラディスラフ2世]]が殺害されてから、公位はダネシュティ家と対立する[[ドラクレシュティ家]]の[[ヴラド・ツェペシュ|ヴラド3世]]の手にあった。バサラブ3世は亡命先の[[トランシルヴァニア]]で公位を狙った。1459年1月21日付で、当時滞在していた[[シギショアラ]]から[[ブラショフ]]へ送った手紙が伝わっている。
 
1462年の[[オスマン帝国]]の侵攻後、ヴラド3世はオスマンを後ろ盾とする実弟の[[ラドゥ3世]]に敗れてトランシルヴァニアに逃亡したが、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]に謀反の疑いをかけられ逮捕・幽閉された。それ以来、ラドゥ3世の政権が10年ほど続いたが、オスマンの宗主権が強化される中、[[モルダヴィア公国|モルダヴィア公]][[シュテファン3世 (モルドヴァ公)|シュテファン3世]]はラドゥ3世にかわる新たなワラキア公候補としてバサラブ3世を支援した。1473年11月24日、バサラブ3世はついに公即位を果たすが、ラドゥ3世に味方するワラキア・オスマン連合軍の攻撃を受け、12月23日に退位しモルダヴィアに亡命した。1474年10月1日、シュテファン3世の援助で公位を奪還するもモルダヴィア軍が帰国すると同20日、トランシルヴァニアに支援された同じダネシュティ家のバサラブ4世に敗れ再びモルダヴィアに逃れた。11月にはオスマンの援助でラドゥ3世が復位した。1475年1月、またも公位に返り咲く。次第にオスマンに接近し始めたバサラブ3世を見限ったシュテファン3世は、マーチャーシュ1世にヴラド3世のワラキア公復帰を要請して受諾された。1476年2月、バサラブ3世は[[シビウ]]と[[ブラショフ]]がヴラド3世を援助していることに対して抗議するも受け入れられなかった。トランシルヴァニアより進撃した同地貴族シュテファネス・バートリとヴラド3世の軍が11月8日、ワラキアの首都[[トゥルゴヴィシテ]]を占領、続く16日、[[ブカレスト|ブクレシュティ]]も陥落し、オスマンへ逃亡したバサラブ3世は26日に廃位された。年末、ヴラド3世が不慮の死を遂げ、バサラブ3世が復位した。ヴラド3世の死因やその背景には諸説あるが、バサラブ3世の謀略で暗殺されたともいう。
 
1477年11月、バラサブ4世によって5度目の公位から追われ、1480年12月22日に死去した。
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