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こうした歴史の記録には書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、[[ヤマト王権|倭王権]]の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する<ref name="遠藤2015p197">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 197</ref>。彼ら、フミヒトの多くは[[渡来人]]によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の[[百済]]からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った<ref name="遠藤2015p198">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 198</ref>。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には[[朝鮮半島]]において百済と競合する[[新羅]]でも修史事業が進められていた<ref name="遠藤2015p198"/>。
 
「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は[[推古天皇|推古朝]]に登場する。『日本書紀』によれば皇太子([[聖徳太子]]、厩戸皇子)と嶋大臣([[蘇我馬子]])の監修で推古28年(620年)に『[[天皇記]]』『[[国記]]』『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』がまとめられた<ref name="遠藤2015p193"/>。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない<ref name="関根2002bp62">[[#関根 2002b|関根 2002b]], p. 62</ref>(これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など<ref name="坂本1979pp161_162">[[#坂本 1979|坂本 1979]], pp. 161-162</ref>)。しかし、推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする<ref name="遠藤2015p194">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 194</ref>。上に述べた[[新羅]]の修史事業は[[真興王]]6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、[[高句麗]]は[[嬰陽王]]11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している<ref name="遠藤2015p195">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 195</ref><ref group="注">高句麗の『新集』は古記(留記)を改削したものであるとされる。</ref>。[[百済]]については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『[[三国史記]]』の記述からは[[近肖古王]](在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる<ref name="遠藤2015p196">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 196</ref>。
 
これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。このことは恐らく日本(倭)の推古朝の修史も同様であった<ref name="遠藤2015p196"/>。後に中国大陸を統一した[[唐]]は外国からの朝貢使の受け入れにあたり国情聴取を制度として実施していた。実際に日本の[[遣唐使]]の使節が「日本国の地理及び国初の神名」を問われたことが『日本書紀』の記録に見え、このような外交の場のやりとりは、各国に自国の成り立ちを意識させることになったであろう<ref name="遠藤2015p197"/>。推古朝に入り、日本は唐に先立つ[[隋]]への遣使([[遣隋使]])を始め、中華王朝との外交関係の構築に手をつけている。唐の場合と同じく、隋代の外交の場でもこのようなやり取りが必要であり、対外交渉を通じて日本は「自国史」を意識するようになっていった。こうして推古朝において修史が開始されたと考えられる<ref name="遠藤2015p197"/>。
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『日本書紀』は『[[古事記]]』と並び日本に伝存する最も古い史書の1つである。しかし『古事記』が序文において編纂の経緯について説明するのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわからない<ref name="遠藤2012pp6_7">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 6-7</ref>。『日本書紀』の成立について伝えるのは8世紀末に完成した歴史書『[[続日本紀]]』であり、養老4年(720年)5月癸酉条に次のようにある。
 
{{quote| quote = 先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷<br>以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『'''日本紀'''』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した<ref group="注">ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては[[#書名|書名]]を参照</ref>。}}
 
ここから、『日本書紀』の成立は養老4年(720年)とするのが一般的である。しかし『続日本紀』の記述は簡潔であるため、いつから編纂が始まり、どのような経緯を経て完成に至ったのか確認することはできない<ref name="遠藤2012pp7_8">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 7-8</ref>。このため現代の学者は『日本書紀』の内容に基づいてその具体的な経緯を推定している。
 
歴史学者[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]は、[[天武天皇]]10年(681年)に天皇が[[川島皇子]]以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見た<ref name="坂本1951">[[#坂本 1951|坂本 1951]]</ref>。21世紀初頭現在でもこの見解が一般的である<ref name="遠藤2015p193">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 193</ref><ref name="関根2020p175">[[#関根 2020a|関根 2020a]], p. 175</ref><ref name="栄原1991p39">[[#栄原 1991|栄原 1991]], p. 39</ref>。
なお、近年になって[[笹川尚紀]]が持統天皇の実弟である[[建皇子]]に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり<ref group="注">笹川説によれば、建皇子の生母と葬地に関する記述の整合性に問題があり、天武天皇の時代から国家的事業として『日本書紀』の編纂作業が行われたとすれば、天武天皇の皇后(持統天皇)の実弟に関する疑問点は彼女から尋ね得た筈だとする。
 
また、川島皇子らは「上古の諸事」に関する編纂を命じられたとされているのに、当の天武天皇の時代の出来事(=現代史)を含める『日本書紀』の実態は天武天皇の命と矛盾するとしている、とも指摘している。</ref>、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原資料の1つであったとする説を出している<ref>笹川尚紀「『日本書紀』編修論序説」(初出:『史林』第95巻第5号(2012年)/笹川『日本書紀成立史攷』(塙書房、2016年)ISBN 978-4-8273-1281-2)</ref>。
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一定の法則によって時間を区切り年月日を数え(暦法)、それによって構築された[[カレンダー]](暦表)、またその方法論を暦という。『日本書紀』が紀年・暦日を有し、時間を明示していることは即ち、ある暦法によって計算された年次・日が記された資料に基づいて書かれたか、あるいは編纂時に暦の計算が行われたことを意味する。暦法は天体運動を基準に作成されるのが基本であり、[[太陽暦]]、[[太陰太陽暦]]、[[太陰暦]]の3種に大別されるが(詳細は[[暦]]を参照)、『日本書紀』の暦法は中国に起源を持つ太陰太陽暦に依っている。
 
『日本書紀』には約900個の月朔(その月の1日の干支)が記載されている<ref name="小川1997">[[#小川 1997a|小川 1997a]](1940)</ref>。これもまた十干と十二支の組み合わせによって表現される。例えば、『日本書紀』最初の暦日である神武天皇が東征に出発した日は「太歳甲寅」の年の「冬十月丁巳朔辛酉<ref group="注">太歳甲寅の年、十月一日(月立ち、即ち朔)の干支が丁巳、その月の辛酉の日の意。六十干支の並びは丁巳、戊午、己未、庚申、辛酉...と続くことから、辛酉の日は朔(1日)の4日後である。つまり神武天皇の東征開始は太歳甲寅の年の10月5日であることがわかる。</ref>」の日であり、即位の日は「辛酉」の年の「春正月庚辰朔<ref group="注">辛酉の年の春正月(1月1日)、朔の日の干支は庚辰。</ref>」と表記される。
 
この六十干支による日付表記は、実際の天体運動が完全な等速運動でないことや、基準になる月や太陽の運動周期が厳密には整数でないこと、地球の[[自転]]・[[公転]]周期と同期しないことから様々な調整を要する。具体的には、朔望月(月の満ち欠け)の周期<ref group="注">公転周期ではない。</ref>が約29.53日であることから、一か月の日数を30日とする大の月と29日とする小の月を設定し、月の周期と暦を同期させる調整が必要になる。さらに、朔望月による12か月(約354.36日)と地球の公転周期(約365.24日)が同期しないため、適時13カ月目([[閏月]])を挿入する年を作る必要がある(詳細は[[閏月]]を参照)。この調整の仕方、暦法によって、同じ日の干支や閏月が異なる場合がある。
 
日本では江戸時代以来、『日本書紀』が用いている暦法を復元する試みが行われており、初期の頃は日本独自の暦、あるいは百済の暦などの説が出されていたが<ref name="遠藤2012pp66_67">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 67-69</ref><ref name="小川1997p246">[[#小川 1997a|小川 1997a]](1940)p, 246</ref>、20世紀半ばに[[東京天文台]](現:[[国立天文台]])の職員・天文学者であった[[小川清彦 (天文学者)|小川清彦]]によって中国からもたらされた[[元嘉暦]]と[[儀鳳暦]](麟徳暦)が使用されていることが明らかにされた<ref name="小川1997"/>。
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! 年 !! 西暦換算 !! 日本書紀記載の月朔 !! 儀鳳暦の月朔 !! 元嘉暦の月朔
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| 太歳甲寅  || -666<ref group="注">天文学的紀年法に依る。計算上の利便のため、西暦0年を設定するため、-666年は紀元前667年である。以下の年次も同じ。</ref> || style="background:#ddf" | 11月丙戌 || style="background:#ddf" | 丙戌 || style="background:#fdd" | 丁亥
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| 戊午 || -662 || style="background:#ddf" | 6月乙未 || style="background:#ddf" | 乙未 || style="background:#fdd" | 丙申
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この表に示される通り、垂仁23年、履中5年、欽明31年4月の「閏」字が筆写時に脱落したものと仮定した場合、4世紀頃以前の月朔の干支は儀鳳暦に、5世紀頃以降のそれは元嘉暦に一致する<ref name="小川1997"/>。
 
当時既に『日本書紀』が指し示す紀年が古い時代において信用に足らないことは理解されていたが、儀鳳暦・元嘉暦を用いた小川の推算値と『日本書紀』記載の暦日は比較的高い一致を示した。年代が疑わしいものであるにもかかわらず、暦日の月朔がその疑わしい年代と良く合致することは、『日本書紀』の月朔が同時代史料の記載にあったものを写したのではなく、後世に設定された紀年に合わせて計算されたものであることを意味する<ref name="小川1997p249">[[#小川 1997a|小川 1997a]](1940)p, 249</ref><ref group="注">なお、小川によれば『日本書紀』で用いられている儀鳳暦は中国で作られた本来の儀鳳暦ではなく、計算を簡便にするために簡略化されたものである。同論文に付された[[斎藤国治]]の解説を次に引用する。「儀鳳暦は本来『定朔法』(日月の天球上運動を不等速とする)をとる暦法であるが、『書紀』編纂当時の暦算家は逆算の手間をはぶくため、より簡単な『経朔法』(日月の天球上運動をそれぞれ等速と仮定する)を採用して算定する。」</ref>。
 
==== 古事記の崩御年干支 ====
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歴代天皇の在位期間の問題は、初期の天皇の不自然な長寿についてである(神武天皇は崩御時127歳、[[崇神天皇]]は120歳、応神天皇は110歳)。そして彼らに関わる紀年を西暦に置き換えると到底史実とはみなし難い年代が得られる。例えば神武天皇即位前記の東征開始の年、「太歳甲寅」は西暦に換算すると紀元前667年となり、これは[[天孫降臨]]から179万2470年後のことであったという<ref name="遠藤2012p61">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], p. 61</ref>。現代ではこのような『日本書紀』の年代設定は架空のもので、推古朝の頃に中国の[[讖緯]]説([[陰陽五行]]説にもとづく[[予言]]・占い)に基づいて、[[神武天皇]]の即位を[[紀元前660年]]に当たる[[辛酉]](かのととり、しんゆう)の年に設定したと考えられている<ref name="井上2005pp278_279">[[#井上 2005|井上 2005]], pp. 278-279</ref><ref name="遠藤2012pp63_64">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 63-64</ref>。神武天皇の即位年が讖緯説によって設定された作為によるものであるという見解は早くも江戸時代に伴信友などによって指摘され<ref name="大津2017p117">[[#大津 2017|大津 2017]], p. 117</ref><ref name="倉西2003p17"/>、明治時代に[[那珂通世]]によって現代の通説が打ち立てられた。
 
讖緯説は干支が一周する60年を一元、二十一元(1260年)を一蔀として特別な意味を持たせるもので、後漢代の学者[[鄭玄]]が『易緯』の注の中で述べているものである<ref name="遠藤2012pp63_64"/><ref name="大津2017p117"/>。那珂通世の結論は、推古天皇9年(601年)、辛酉の年を起点として、一蔀遡った前660年、辛酉の年が神武天皇元年として設定されたというものである<ref name="遠藤2012pp63_64"/><ref name="大津2017p117"/>{{refnestRefnest|group="注"|なお、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[三善清行]]は、[[昌泰]]4年(901年)辛酉の年に、当年が革命の年に当たることから改元すべきことを[[醍醐天皇]]に上奏した。この時彼が提出した上申書は「[[革命勘文]]」<ref>『[[群書類従]]』 第貮拾六輯 雜部 所収</ref>という名で知られており、『易緯』の鄭玄注はこの革命勘文の中で引用されているものである。この中では「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」とあり、一蔀は1320年とされている<ref name="大津2017pp117_118">[[#大津 2017|大津 2017]], pp. 117-118</ref>。しかし、「革命勘文」の説明に従えば一蔀は「廿一元」であり1260年であるはずである。那珂通世は三善清行の計算違いを指摘し、推古朝を起点とする説を提唱した大津は、三善清行は昌泰4年の改元を実現するために一蔀を1320年とする作為を加えたようにも見えるとする。一蔀1320年とした場合、神武天皇即位から一蔀後の斉明7年が蔀首となる。三善清行は、そこから4×60(240)年後の901年大変革命の年となると主張した。}}。
 
また、初期の天皇の不自然に長い寿命を説明する説として[[春秋二倍暦説]]がある。これは古い時代には春夏を1年、秋冬を1年と数えていたが、『日本書紀』編纂時にはこれが忘れ去られていたため天皇の年齢が2倍になったという仮説である<ref name="倉西2003p35">[[#倉西 2003|倉西 2003]], p. 35</ref>。この説は明治時代にデンマーク人[[ウィリアム・ブラムセン]]が初めて唱えたもので、戦後には幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「[[魏志倭人伝]]」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した<ref name="倉西2003p38">[[#倉西 2003|倉西 2003]], p. 38</ref>。これとは別に、『日本書紀』には記事がない空白の年が多数あることから、記事がある年のみが実際の紀年であり、記事の空白期間を省くことで実際の年代を復元できるという説(復元紀年説)も存在する<ref name="倉西2003p39">[[#倉西 2003|倉西 2003]], p. 39</ref>。これらの説は、その後の「[[倭の五王]]」の時代の編年との接続に問題を抱えており<ref name="倉西2003p40">[[#倉西 2003|倉西 2003]], p. 40</ref>、広く受け入れられてはいない。
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| 神功元年 || 201年 || 321年 || 摂政元年 || -
|-
| 神功39年 || style="background:#ddf | 239年 || 359年 || 明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使(日本書紀引用、魏志) || 明帝の景初二年<ref group="注">現存の『三国志』では景初二年とあるが、『日本書紀』始め『[[梁書]]』、『[[翰苑]]』など古い時代の引用文が景初三年とすることから、誤写として景初三年に修正するのが通説である。</ref>六月、倭女王が遣使(三国志、魏志)
|-
| 神功55年 || 255年 || style="background:#ddf | 375年 || 五十五年、百済の肖古王が死去。 || 近肖古王三十年、冬十一月、王が死去(三国史記)
|-
| 神功56年  || 256年 || style="background:#ddf | 376年 || 五十六年、百済の王子貴須が即位。 || 近仇首王が即位。(三国史記)<ref group="注">なお、『日本書紀』は越年称元法(前君主の翌年を元年とする)、『三国史記』は当年称元法(前君主の死去の年を元年とする)で記述されているため、『日本書紀』の「百濟王子貴須が王となった」年は『三国史記』では近仇首王二年に相当する(倉西)。</ref>
|-
| 神功64年 || 264年 || style="background:#ddf | 384年 || 六十四年、百済国の貴須王が死去。枕流王が即位。 || 近仇首王十年、夏四月、王が死去。枕流王即位。(三国史記)
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{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+'''倭の五王の遣使'''
! 西暦 !! 日本書紀紀年<ref group="注">神功皇后39年を239年、雄略天皇5年を461年とする。</ref> || 中国史書の倭王 || 古事記分註崩御年干支による在位天皇
|-
| 269年 || 神功皇后69年 || 倭女王 || -
274行目:
| 451年 || 允恭天皇40年 || 済 || 允恭天皇(454年崩御)
|-
| 462年 || 雄略天皇6年 || 興 || - <ref group="注">允恭天皇と雄略天皇の間は安康天皇であるが、安康天皇の崩御年干支は『古事記』分註に無い。</ref>
|-
| 478年 || 雄略天皇22年 || 武 || 雄略天皇(489年崩御)
|-
| 502年<ref group="注">実際に遣使があったかは疑問視されている。</ref> || 武烈天皇4年 || 武 || -
|}
 
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雄略天皇については雄略5年が西暦461年にあたることが研究者の間で一致を見ている。これは雄略5年条に百済の[[武寧王]]の誕生記事があり、その干支(辛丑)が[[武寧王陵]]出土の墓誌の崩御年である癸卯(523年)および年齢(62歳で死亡、辛丑の年から癸卯の年まで還暦を挟んで62年)と整合することによる<ref name="倉西2003p52">[[#倉西 2003|倉西 2003]], p. 52</ref>。
 
このような問題のため、5世紀頃と推定される歴代天皇の在位期間および絶対年代は現在も完全には確定していない<ref{{Refnest|group="注">倉西は百済の武寧王誕生記事を基準に雄略5年を461年として『日本書紀』記載の歴代在位年数を遡ると、応神天皇元年が270年(計算は461年-4年〈雄略〉-3年〈安康〉-42年〈允恭〉-1年〈空位〉-5年〈反正〉-6年〈履中〉-87年〈仁徳〉-2年〈空位〉-41年〈応神〉=応神元年〈270年〉)となり、阿花王即位記事を基準にして応神天皇元年を390年とした場合と120年の差分が生じることから、干支二運の繰り上げが神功紀だけではなく、応神紀から雄略紀までの間にも存在しているとしている。なお、応神天皇元年を390年として、雄略5年までを逆に積算すると雄略5年は581年となるが、雄略5年を461年とする紀年は『日本書紀』最後の紀年である持統天皇11年(697年)と整合的であるため、これは成立しない<ref>[[#倉西 2003|倉西 2003]], pp. 46-56</ref>。}}
 
== 編纂方針 ==
325行目:
講筵の内容については、甲乙丙丁の四種が残る講書の筆記記録の不完全な伝本(『[[日本書紀私記]]』)によって伝わる<ref name="坂本1970p125">[[#坂本 1970|坂本 1970]], p. 125</ref>。そのうち甲乙丙の三種の内容は本文中の語句の訓読法に終始しており、丁は語句の疑義に対する問と博士の解答が集積されたものである<ref name="長谷部2018p362">[[#長谷部 2018|長谷部 2018]], p. 362</ref><ref name="坂本1970p125"/>。これらのことから、講筵では『日本書紀』の漢語の訓読が主要な論題であったことがわかり、『日本書紀』をいかに読む(訓む)かが学生と博士との間の問答を通じて聴衆に伝えられたものと見られる<ref name="長谷部2018p362"/><ref name="坂本1970p125"/>。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられた<ref name="坂本1970p126">[[#坂本 1970|坂本 1970]], p. 126</ref>。
 
講筵はまた官人たちに日常において意識することのない大きな物語としての国史を想起させる儀式でもあり<ref name="長谷部2018p375">[[#長谷部 2018|長谷部 2018]], p. 375</ref>、概ね体制が整った元慶2年(878年)以降の形式について10世紀の儀式書『[[西宮記]]』に記録が残されている<ref name="長谷部2018p361">[[#長谷部 2018|長谷部 2018]], p. 361</ref>。その記録から、「天皇の命で開催が決定される公式な会であること」「博士以下学生に至る講読の実行主体の外側に監督者・見学者としての公卿層以下が配置される公開行事であること」「開催期間が複数年と長期間にわたること」が日本紀講筵の基本構造であったと考えられる<ref name="長谷部2018p361"/><ref>{{Refnest|group="注"|弘仁4年([[813年]])以降、概ね30年毎に講筵が行われているのに対し、時期的に孤立している養老5年([[721年]])については明確な実施記録が無く、開催自体が虚構であるという説や弘仁以降の講筵とは性質的に異なるとする見解、即ち『日本書紀』完成の翌年に開かれたことから考えて完成披露という意味合いの強いものであったとする意見が有力である。ただしそれでも他の講筵と基本構造を同じくしていると考えられており、「私記」の作成も記録に残されてはいる。詳細は<ref>[[#長谷部 2018|長谷部 2018]], pp. 363-368を参照。</ref>。}}
 
以下に過去の講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
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=== 『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連 ===
聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した<ref group="注">むろん、祖先として伝説上の人物を書いた各種系図であって近代的な意味では正確な内容とはいえない。</ref>。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『[[帝紀]]』、『[[旧辞]]』は7世紀ごろの成立と考えられている。
 
『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、[[口承]][[伝承]]に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『[[国記]]』・『[[天皇記]]』は、[[蘇我蝦夷]]・[[蘇我入鹿|入鹿]]が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは[[天智天皇]]に献上されたという記述がある。
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現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』([[百済三書]]の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。
 
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない[[逸書]]である(『[[三国史記]]』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の[[威徳王 (百済)|威徳王]]の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた<ref name="yamao">以下、[[#山尾1999|山尾(1999)]]を参照。</ref>。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く<ref group="注">百済三書記事の中には、百済王が天皇の「黎民」と「封」建された領土とを治め、自分たちの国は天皇に「調」を貢いで仕えまつる「官家(みやけ)」の国、元来の天皇の「封」域を侵して「新羅の折れる」加羅諸国を天皇の命令で「本貫に還し属け」てほしい、自分は天皇の「蕃」(藩屏)をなす「臣」であるなどの記述があふれ、地の文には、百済王が、天皇から全羅北道の地を「賜」与されたとある。</ref>、また、[[任那日本府]]に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。<!--独自研究--三書との対応を基礎に古地名を考証比定し、その最も北に線を引いたもの、それがかつて通説とされた「任那境域の縮小過程」図の370年ころの直轄領土であり、その範囲は、全羅道、忠清道の南半分、慶尚道の西半分に及ぶ。-->
 
また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある<ref group="注">他に、「阿花王立つ、貴国に礼なし」、(木刕満致は)「我が国に来入りて、貴国に往還ふ」</ref>。[[山尾幸久]]は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている<ref>[[#山尾1999|山尾(1999)]]注釈、山尾幸久「飛鳥池遺跡出土木簡の考察」『東アジアの古代文化』、[[1998年]](平成10年)、97頁</ref>。
 
現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている<ref>[[#山尾1999|山尾(1999)]]注釈、坂本太郎「継体紀の史料批判」『坂本太郎著作集 二』吉川弘文館、[[1988年]](昭和63年)。久信田喜一「『百済本記』考」『日本歴史』[[1974年]](昭和49年)、309頁。鈴木靖民「いわゆる任那日本府および倭問題」『歴史学研究』[[1974年]](昭和49年)、405頁。山尾幸久「百済三書と日本書紀」『朝鮮史研究会論文集18』龍渓書舎、[[1978年]](昭和53年)</ref>。[[山尾幸久]]は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして<ref>[[#山尾1999|山尾(1999)]]注釈、山尾幸久『カバネの成立と天皇』吉川弘文館, 1998</ref>、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている<ref>{{Refnest|group="注"|天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城、維鳩、公州付近から全羅道の栄山江、蟾津江流域にまで及んでいる。これは、滅亡時の百済王が独立して、かつ正当に統治していた国家の領土とほぼ一致する。しかし、7、8世紀の交の在日百済王族、貴族はそれを天皇から委任された統治と表現せざるを得ない臣下の立場にあった。このような観念を実体化して、「高麗、百済、新羅、任那」は「海表の蕃屏として」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体紀』)などというのは信頼し難い<ref>[[#山尾1999|山尾(1999)]]</ref>。}}。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある<ref name="hori">[[#堀1998|堀(1998)]]</ref><ref name="kamigaito">[[#上垣外2003|上垣外(2003)]]</ref><ref name="yamauti">[[#山内2003|山内(2003)]]</ref><ref name="tinn">[[#沈2003|沈(2003)]]</ref><ref>[[#鈴木1991|鈴木(1991)]]</ref><ref>『読売新聞』[[2004年]](平成16年)[[2月6日]]。</ref>。
 
== 『日本書紀』目次 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
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* [[淮南子]]
* [[甲斐の黒駒]]
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* [[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
* [[ウィリアム・ジョージ・アストン]] 日本書紀を最初に英訳
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== 外部リンク ==