「ゲルトルート・フォン・アンデクス」の版間の差分

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アンデクス伯[[ベルトルト (メラーン公)|ベルトルト4世]](のちに[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]によってメラーン公にされる)と、[[ヴェッティン家]]の{{仮リンク|アグネス・フォン・ロホリッツ|en|Agnes of Rochlitz}}([[ラウジッツ辺境伯領|下ラウジッツ辺境伯]]デド3世の娘)の子として生まれた。同母姉は、フランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ尊厳王]]の3度目の王妃[[アニェス・ド・メラニー|アグネス]]、同母妹はのちにカトリックの聖人とされた[[シロンスクのヤドヴィガ|ヘートヴィヒ]]である。
 
ゲルトルートの両親は、娘たち全員にベルトルド4世が同盟関係を構築することになる重要な政治的結婚を望んだ。ゲルトルートは[[アールパード家]]の王子アンドラーシュと1203年より前に結婚した。アンドラーシュはゲルトルートとの結婚によって、ローマ王位をめぐる争いにおいては義父が支援するシュヴァーベン大公フィリップ(のちの皇帝[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]])の側についた(一方で兄[[イムレ (ハンガリー王)|イムレ1世]]は[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー]]を推していた)。2人の間には5子が生まれた。
 
* アンナ・マーリア(1204年 - 1237年) - ブルガリア皇帝[[イヴァン・アセン2世]]の2度目の妃
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* アンドラーシュ(1210年 - 1234年)
 
野心的なゲルトルートは夫に対してずっと政治的影響力を及ぼした。兄イムレ1世に対して謀を行うようアンドラーシュを説得したのはおそらく彼女であっただろう。しかしイムレは、アンドラーシュの軍勢が自らの軍勢を上回っていることを悟っていた。イムレは王冠と笏を持ったまま武器を持たずにアンドラーシュの陣に向かい、アンドラーシュは自主的に兄に投降した。王は弟を捕らえさせたが、アンドラーシュはその後まもなく逃亡することができた。この時期、ゲルトルートは父親のもとへ送り返されていた。1204年にイムレ1世が死んでアンドラーシュがハンガリー王国の実権を握ると、彼女の状況は改善された。公式にはアンドラーシュは幼い甥[[ラースロー3世 (ハンガリー王)|ラースロー3世]]の摂政であったが、わずか1年後に甥から王位を簒奪し、ラースローは亡命先で急死してしまう。
 
1213年、ゲルトルートは、ハンガリー宮廷において王妃のドイツ人の縁戚が勢力を拡大していることに嫉妬したハンガリーの[[マグナート]]によって殺害された。ノビリッシマ・ファミリア({{lang|hu|Nobilissima familia}}、もっとも高貴な王族)という名称は、ハンガリー王やその家族に対して11世紀以降用いられたが、実際にそう呼ばれたことが公式の文書に記された人物はゲルトルートを含めても非常に少なかった。