「第二次木津川口の戦い」の版間の差分

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6日午前8時ころに開始された海戦は、はじめ九鬼の大船を毛利軍が取り籠めるように船団を動かすなど、織田軍は劣勢にみえた{{Sfn|池上|2012|p=169}}。しかし、毛利水軍を間近に引きつけて、毛利方の大将の船らしいのをねらって大鉄砲で打ち崩す作戦をとったところ、毛利方は恐れて近づこうとしなくなり退却した{{Sfn|池上|2012|p=169}}。こうして戦闘は4時間ほどで終わり、毛利方の補給作戦は阻止されたのである{{Sfn|池上|2012|p=169}}。
『信長公記』では、織田水軍の圧勝を伝えている{{Sfn|宇田川|1986|p=132}}。
その一方で、「織田方が勝利、毛利の兵糧入れを阻止した」という記述は[[信長公記]]以外に乏しく、毛利方の一次資料(毛利家文書)によれば毛利水軍は木津浦に着岸しており、[[下間頼廉]]と協議した上、織田方から寝返った[[荒木村重]]も加えて持久戦の体勢を整えた、とあり[[第一次木津川口の戦い]]のような一方的に蹂躙された敗戦に比べれば「勝利」と呼べる形にはなったものの、信長公記でも具体的な戦果には触れておらず、以後も本願寺方から毛利方へ送られた兵糧搬入に対する謝辞の書状なども残っている事や、木津に毛利方水軍の拠点を作られている事、[[九鬼嘉隆]]が兵糧の欠乏に陥り、堺から当座の補給を受けている事(宮部文書)から九鬼氏が本拠からの輸送を[[雑賀衆]]や[[堀内氏善]]ら反信長勢力に妨害されている事などが窺え、本願寺への海上補給は継続し、完全封鎖とはならず、毛利方の圧倒的な優勢から織田・毛利の水軍勢力の拮抗程度に収まっており、織田方の「[[大本営発表]]」であるとの見方もある。{{Sfn|小川|2020|p=108}}本願寺への補給が途絶えるのはこの一戦が決め手となったというわけではなく、この後、数年の間に宇喜多氏の織田方への寝返りや[[別所長治]]・[[荒木村重]]ら反信長勢力の駆逐などによって、毛利領から大阪湾へ続く陸路が制圧されていった結果、水軍衆の輸送業務が容易ではなくなり多大な負担となった事や、本拠から孤立しかねない状況になっていった事から[[淡路島]]に在陣していた[[児玉就英]]が無断撤退するなどの要因が大きくなっていった事が挙げられる。{{Sfn|小川|2020|p=110}}
 
== 参考史料 ==