「アーヌンド・ヤーコブ」の版間の差分

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(→‎後継者問題: 他記事との整合性をつけるため加筆。)
 
== 即位 ==
アーヌンド・ヤーコブの治世についての主な史料は、[[ブレーメンのアダム]]によるほぼ同時代の教会[[年代記]]や、[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけての複数のノルド史、特に[[スノッリ・ストゥルルソン]]が著した[[ヘイムスクリングラ]]である。両名はともに、彼の父オーロフ(在位:[[995年]] - 1022年)が死ぬ前に臣下と対立していたと記述している<ref>Adam av Bremen (1984), ''Historien om Hamburgstiftet och dess biskopar''. Stockholm: Proprius, p. 102-3 (Book II, Chapter 58).</ref>。アダムによると、未だに異教徒であった[[スヴェアランド]]の人々は、その熱心なキリスト教徒の君主を[[ヴェステルイェートランド地方]]へ撤退させた。一方スノッリは、オーロフ王の高圧的な支配が[[スウェーデン人]]の反抗を招いたため、彼の幼い息子ヤーコブが王として歓迎された、と主張する。スウェーデン人の[[ディング]]が彼をその支配者に選ぶことになっていたとき、その出席者らは彼の非スカンディナヴィア風の名前に反対したため、彼らはヤーコブにアーヌンド(Anund)という名を与えた<ref>Snorre Sturluson (1992), ''Nordiska kungasagor: Olav den heliges saga''. Stockholm: Fabel, p. 127 (Olav the Saint's Saga, Chapter 94).</ref>。オーロフとヤーコブは最終的に合意に達した。オーロフはその後も王の称号を持ち続けることになった一方、アーヌンド・ヤーコブは彼と共同統治者となって王国の一部を支配することになり、もしオーロフがさらに問題を起こせば、ヤーコブは[[農民]]らを支援せねばならない、とされた。スノッリの年代記によればこれは[[1019年]]の出来事である。その3年後にオーロフは死去し、アーヌンド・ヤーコブが唯一の支配者となった<ref>Snorre Sturluson (1992), p. 158 (Olav the Saint's Saga, Chapter 114).</ref>。
 
== 脚注 ==