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{{Expand English|Anund Jacob|date=2020-04}}
{{基礎情報 君主
| 人名 = アーヌンド・ヤーコブ
| 各国語表記 = Anund Jakob
| 君主号 = スウェーデン王
| 画像 = Anwynd James of Sweden coin c 1040.jpg
| 画像サイズ =
|在位=1022年 - 1050年
| 画像説明 =
|出生日=1008年 - 1050年
| 在位 = [[1022年]] - [[1050年]]
|配偶者1=ラグンヒルド
|死亡 戴冠 =1050年
| 就任式 =
|王家=マンショ家
| 祝祷式 =
|王朝=[[ユングリング朝]]
| 即位式 =
|父親=[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]
| 別号 =
|母親=エストリッド
| 配偶号 =
|宗教=[[キリスト教]]ローマ[[カトリック]]
| 在位2 =
| 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1008年]]
| 生地 = {{SWE}}
| 死亡日 = [[1050年]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = グンヒルド
| 子女 = ギーダ(グンヒルド)
| 家名 = [[ユングリング家]]
| 王朝 = [[ユングリング朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]
| 母親 = エストリッド
| 宗教 = [[キリスト教]]ローマ[[カトリック]]
| サイン =
}}
'''アーヌンド・ヤーコブ'''([[スウェーデン語]]:Anund Jakob, [[英語1008年]]:Anund Jacob)- [[1050年]])は、[[1022年]]から[[1050年]]ごろにかけて在位した[[ユングリング家]]の[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]]。
 
[[1008年]]あるいは[[1010年]]に、[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ・シェートコヌング]]と{{仮リンク|エストリッド|en|Estrid of the Obotrities}}の間にヤーコブ(Jakob)<ref>Snorre Sturluson (1992), ''Nordiska kungasagor: Olav den heliges saga''. Stockholm: Fabel", p. 107, 127 (Olav the Saint's Saga, Chapter 88 and 94)</ref>として生まれたとされる。スウェーデン王国の第2のキリスト教徒の君主であった間、彼の長くそして部分的に激動の統治は[[キリスト教]]の普及を促進した。[[ゲルマン人]]や[[ノース人]]の史料においては、彼について好意的な表現で言及されている。
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=== 後継者問題 ===
アーヌンドは[[ハーコン・シグルザルソン|ホーコン・シグルツソン]]の孫娘グンヒルドと結婚したが、2人の間に男子がなかった。アーヌンドは嗣子を残さず1050年に死去し、王位は庶兄にあたる[[エームンド (スウェーデン王)|エームンド]]が継いだ。娘ギーダ(グンヒルド)がおり、デンマーク王[[スヴェン2世 (デンマーク王)|スヴェン2世]]と結婚した。そしてギーダの死後、アーヌンドの妃であったグンヒルドがスヴェン2世の2度目の妃となったとされている<ref>Sven Axelson (1955), Sverige i utländsk annalistik 900-1400. Stockholm: Appelbergs, p. 55.</ref>。
 
== 即位 ==
[[File:Kung Anes Sten på 20-talet.JPG|thumb|アーヌンドの埋葬地にあったとされる「アネ王の石」]]
アーヌンド・ヤーコブの治世についての主な史料は、[[ブレーメンのアダム]]によるほぼ同時代の教会[[年代記]]や、[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけての複数のノルド史、特に[[スノッリ・ストゥルルソン]]が著した[[ヘイムスクリングラ]]である。両名はともに、彼の父オーロフ(在位:[[995年]] - 1022年)が死ぬ前に臣下と対立していたと記述している<ref>Adam av Bremen (1984), ''Historien om Hamburgstiftet och dess biskopar''. Stockholm: Proprius, p. 102-3 (Book II, Chapter 58).</ref>。アダムによると、未だに異教徒であった[[スヴェアランド]]の人々は、その熱心なキリスト教徒の君主を[[ヴェステルイェートランド地方]]へ撤退させた。一方スノッリは、オーロフ王の高圧的な支配が[[スウェーデン人]]の反抗を招いたため、彼の幼い息子ヤーコブが王として歓迎された、と主張する。スウェーデン人の[[ディング]]が彼をその支配者に選ぶことになっていたとき、その出席者らは彼の非スカンディナヴィア風の名前に反対したため、彼らはヤーコブにアーヌンド(Anund)という名を与えた<ref>Snorre Sturluson (1992), ''Nordiska kungasagor: Olav den heliges saga''. Stockholm: Fabel, p. 127 (Olav the Saint's Saga, Chapter 94).</ref>。オーロフとヤーコブは最終的に合意に達した。オーロフはその後も王の称号を持ち続けることになった一方、アーヌンド・ヤーコブは彼と共同統治者となって王国の一部を支配することになり、もしオーロフがさらに問題を起こせば、ヤーコブは[[農民]]らを支援せねばならない、とされた。スノッリの年代記によればこれは[[1019年]]の出来事である。その3年後にオーロフは死去し、アーヌンド・ヤーコブが唯一の支配者となった<ref>Snorre Sturluson (1992), p. 158 (Olav the Saint's Saga, Chapter 114).</ref>。