「畠山義堯」の版間の差分
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畠山在氏を弟に。脚注追加。一部人名修正。 |
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父の[[畠山義英]]の代には半将軍と呼ばれた[[細川京兆家]]の[[細川政元]]と手を結び畠山尾州家の[[畠山尚順]]、[[畠山稙長]]との戦いを優勢に進めた。しかし、その後に畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した上に、[[永正]]4年([[1507年]])に起きた[[永正の錯乱]]後の政争に巻き込まれて劣勢となり、最終的に[[阿波国]]の[[細川澄元]]の娘を子の義堯の妻に迎えて同盟し、[[足利義稙]]を擁する[[細川高国]]、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けていた([[両細川の乱]])。
義
大永7年([[1527年]])2月、細川高国は上洛してきた丹波勢の[[波多野元清]]・[[柳本賢治]]兄弟、阿波勢の[[三好長家]]・[[三好政長]]兄弟に敗れ、将軍[[足利義晴]]と共に近江の[[六角氏]]に元に落ち延びた([[桂川原の戦い]])。そして、細川澄元の子・[[細川晴元]]が擁していた[[足利義維]]が[[和泉国]][[堺]]に上陸し[[堺公方]]が成立、義堯も堺公方の傘下に入り上洛した。同年10月には再上洛してきた細川高国を桂川で迎え撃ち、[[越前国]]の将である[[朝倉宗滴]]と戦った([[川勝寺口の戦い]])<ref>{{Citation|和書|last=松原|first=信之|author-link=松原信之|title=朝倉氏による敦賀郡支配の変遷(上)|year=2004|journal=若越郷土研究|volume=48|issue=2}}</ref>。
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