「畠山義堯」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
畠山在氏を弟に。脚注追加。一部人名修正。
m typo
23行目:
父の[[畠山義英]]の代には半将軍と呼ばれた[[細川京兆家]]の[[細川政元]]と手を結び畠山尾州家の[[畠山尚順]]、[[畠山稙長]]との戦いを優勢に進めた。しかし、その後に畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した上に、[[永正]]4年([[1507年]])に起きた[[永正の錯乱]]後の政争に巻き込まれて劣勢となり、最終的に[[阿波国]]の[[細川澄元]]の娘を子の義堯の妻に迎えて同盟し、[[足利義稙]]を擁する[[細川高国]]、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けていた([[両細川の乱]])。
 
は、[[大永]]2年([[1522年]])頃に畠山総州家の家督を継いだ。大永6年([[1526年]])7月、細川高国が家臣の[[香西元盛]]を上意討ちにして[[丹波国]]の国人衆の支持を失い失脚すると、その前後に義堯が幕府の管領となったようである<ref>{{Citation|和書|editor=[[桑田忠親]]|title=戦国史事典|publisher=[[秋田書店]]|year=1980|page=171}}</ref>(ただし、近年では細川高国が大永元年([[1521年]])に管領を辞任した後、室町幕府の滅亡まで管領職は空席だったとする見方が有力視されている<ref>{{Citation|和書|last=浜口|first=誠至|year=2017|chapter=戦国期管領の政治的位置|editor=戦国史研究会|title=戦国期政治史論集 西国編|publisher=岩田書院|isbn=978-4-86602-013-6}}</ref>)。
 
大永7年([[1527年]])2月、細川高国は上洛してきた丹波勢の[[波多野元清]]・[[柳本賢治]]兄弟、阿波勢の[[三好長家]]・[[三好政長]]兄弟に敗れ、将軍[[足利義晴]]と共に近江の[[六角氏]]に元に落ち延びた([[桂川原の戦い]])。そして、細川澄元の子・[[細川晴元]]が擁していた[[足利義維]]が[[和泉国]][[堺]]に上陸し[[堺公方]]が成立、義堯も堺公方の傘下に入り上洛した。同年10月には再上洛してきた細川高国を桂川で迎え撃ち、[[越前国]]の将である[[朝倉宗滴]]と戦った([[川勝寺口の戦い]])<ref>{{Citation|和書|last=松原|first=信之|author-link=松原信之|title=朝倉氏による敦賀郡支配の変遷(上)|year=2004|journal=若越郷土研究|volume=48|issue=2}}</ref>。