「ウラジーミル・スーズダリ大公国」の版間の差分
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== 概要 ==
[[1054年]]、キエフ大公[[ヤロスラフ1世]]の死に際して大公国領が存命の息子たちに分配され、第四子[[フセヴォロド1世]]は南方の[[ペレヤスラヴリ]]に加えて古都[[ロストフ]]等を含む[[ヴォルガ川|ヴォルガ上流域]]の北東ルーシを獲得した。[[1097年]]、[[リューベチ諸公会議]]により諸公の勢力圏の現状維持が決議され、上記所領はフセヴォロド1世の長子[[ウラジーミル・モノマフ]]一門の世襲領となる。
[[1176年]]、時の[[キエフ大公国]]の大公[[ユーリー・ドルゴルーキー]](手長公)は、息子の[[フセヴォロド3世]](大巣公)に己の旧領ウラジーミル・スーズダリ公の位を与え、そこに国を建設させた。これがウラジーミル大公国の起源である。フセヴォロド3世は大公国の権力強化に専念し、[[1195年]]にはルーシ諸公からウラジーミル大公として認められたのである。ちなみに、[[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]の[[オペラ]]『[[イーゴリ公]]』として有名な「[[イーゴリ遠征物語]]」の主人公イーゴリ公のモデル[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ]]が活躍したのは、フセヴォロド3世の時代である。これは、イーゴリ公とその2番目の妻[[エフロシニヤ・ヤロスラヴナ|ヤロスラヴナ]]の愛と嘆きが[[オペラ]]にされていることで有名である。[[1212年]]、フセヴォロド3世は死去し、子の[[ユーリー2世]]が後継した。▼
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[[ユーリー2世]]の時代である[[1238年]]、[[モンゴル帝国]]の[[バトゥ]]を総司令官とした[[ヨーロッパ]]遠征軍が侵攻して来た([[モンゴルのルーシ侵攻]])。ユーリー2世は諸公の兵力をかき集めるためにウラジーミル大公国の首都ウラジーミルを出て[[ロストフ]]及び[[ヤロスラヴリ]]を回り、兵を集めた。ウラジーミルの町についてはフセヴォロドやムスチスラフら息子に託した。しかしバトゥは首都ウラジーミルを攻撃して同地を占領し、ユーリー2世の一族はほとんど殺されてしまった。それを知ったユーリー2世は愕然とした。同年3月に北部の[[シチ川 (ヴォルガ川水系)|シチ川]]河畔でモンゴル軍はユーリーの軍に突撃してこれを殲滅し([[シチ川の戦い]])、ユーリー2世も壮烈な戦死を遂げた。ユーリー2世の死後、大公の位は弟の[[ヤロスラフ2世]]が継ぎ、彼はモンゴル帝国に臣従することでウラジーミル公国の存続を図った。これにより、ウラジーミル公国では以後、[[ジョチ・ウルス]]の支配のもとで「[[タタールのくびき]]」と呼ばれる時代を迎える。▼
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ヤロスラフ2世の子、[[アレクサンドル・ネフスキー]]は智勇に優れた名将であり、ジョチ・ウルスから[[冊封]]を受け、臣従を誓う一方で[[スウェーデン]]軍や[[ドイツ騎士団]]を破って大公国の権力・権威を拡大した。[[1263年]]、アレクサンドルが病死するとその弟に当たる[[ヤロスラフ3世]]が継いだ。[[ヤロスラフ3世]]は兄の遺志を継いで富国強兵に励み、ウラジーミル大公国は大いに発展した。[[1271年]]、ヤロスラフ3世が死んで弟のヴァーシリーが後を継いだが、[[1276年]]に嗣子無くして没し、大公の位はアレクサンドルの系統に受け継がれることになった。当初はアレクサンドルの息子[[ドミトリー・アレクサンドロヴィチ]]と[[アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ]]が争い、その後も争いが長く続く中で、アレクサンドルの末子であるモスクワ公[[ダニール・アレクサンドロヴィチ]](彼自身は大公にはならなかった)の血筋が主にモンゴルのハンから大公に任じられるようになっていく。そしてダニール公の息子[[ユーリー3世 (モスクワ大公)|ユーリー3世]]と[[イヴァン1世]]の時代にモスクワ大公国はロシア諸公の中でも強盛を誇る大国となったのである。ウラジーミル大公の位はモスクワ大公の位に兼任されることになったと考えていいかもしれない。
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