「枢密院 (中国)」の版間の差分

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枢密使は唐代までは、軍事情報や機密情報の管理に関する職務に限定されていたが、宋代になると軍政最高機関にまで権限が強化されたことで権力の集中が発生、過度な権力集中を解消すべく[[元豊 (宋)|元豊]]6年([[1083年]])には[[神宗 (宋)|神宗]]により枢密院廃止の建議が出されたが、実施されるに至っていない。その後は中書省との対立関係が生じるようになり、[[金 (王朝)|金]]の進出に対して主戦論を唱える中書省に対し、枢密院は講和論を主張し国論の統一に失敗、[[徽宗]]及び[[高宗 (宋)|高宗]]が金軍の捕虜となる事態([[靖康の変]])を招き宋軍は瓦解するに至った。
 
南宋が成立すると再び宋軍が編成され、その際には枢密院は設置されずに[[御営司]]が設置されたが、[[建炎]]4年([[1130年]])に再設置復活されている。武官出身であった[[韓侂冑]]は権力掌握後も高位高官に昇らずに皇帝と直接接触できる都承旨の地位に踏みとどまって時の皇帝である[[寧宗 (宋)|寧宗]]を操って実権を動かしていた。[[開禧北伐]]の失敗で粛清された韓侂冑に継いで朝廷を掌握執権した[[史弥遠]]は自分の腹心らを枢密院の要職に案配させて軍政の実務を監督する形式で権力基盤を固め、これにより25年にわたる長期政権を享受することができた。
 
==元代==
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