「馬祖道一」の版間の差分

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|生地=[[漢州]][[什邡県]]
|没地=石門山宝法寺
|画像=臨濟宗高僧頂相圖 04(局部).jpg
|画像=
|説明文=
|宗派=[[洪州宗]]
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'''馬祖道一'''(ばそ どういつ、[[709年]]([[景龍 (唐)|景龍]]3年) - [[788年]][[3月13日]]([[貞元 (唐)|貞元]]4年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]))は、[[中国]]の[[唐]]代の[[禅]][[僧]]。[[諡]]は'''大寂禅師'''。俗姓は馬。[[漢州]][[什邡県]]の出身。
 
地元の羅漢寺の資州の[[処寂]]([[648年]] - [[734年]])の下で出家し、益州の長松山などで修禅した後、南嶽([[湖南省]][[衡山]])に向かい、[[南嶽懐譲|懐譲]]の法を嗣ぎ、[[洪州]]開元寺([[江西省]][[南昌市]][[東湖区]])に移って法を広めた([[773年]]頃{{sfn|鈴木|1996|p=110}})。その独自な禅風は[[唐]]代の[[士大夫]]階級に受け入れられて一大宗派'''[[洪州宗]]'''を築き、[[百丈懐海]]や[[南泉普願]]など嗣法の弟子は88人を数え、それぞれが数多くの[[語録]]を残すので、後の禅宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは[[公案]]を重視する[[臨済宗]]へと発展していった。
 
馬祖は、後世の禅僧の名に見られる道号などとは異なり、道一の俗姓である馬氏によるもの。そのニュアンスを日本語化すれば、「馬おじさん」や「馬家の師匠」と呼んでいるのと同じこととなる。[[柳田聖山]]が「'''純禅'''」と称する初期の禅宗徒の気風の一端を表すものである。