「浮世絵」の版間の差分

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===江戸前期===
最初期の浮世絵は、版画はなく、[[肉筆]]画のみであった。[[安土桃山時代|桃山期]]の「[[洛中洛外図屏風]]」と比べ、[[岩佐又兵衛]]の同屏風(通称「舟木本」1614-16年(慶長19-元和2年))は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「[[彦根屏風]]」「松浦(まつら{{Refnest|group=注釈|[[松浦氏]]旧蔵なので、「まつうら」と読むのは誤り。}})屏風{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/collection/collect01/04.html|title=婦女遊楽図屏風(松浦屏風)|accessdate=2020-03-30}}}}」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた{{Sfn|辻|2005|pp=293-294}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=429-431|ps=河野元昭「風俗画」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=178-179|ps=河野「近世初期風俗画」}}{{Sfn|狩野|2014|pp=243-257}}。
 
[[美人画]]は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった[[明朝]]の[[楊貴妃]]像を日本女性にあてはめた説がある{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=431|ps=河野元昭「風俗画」}}。そして[[落款]]に「日本絵師菱川」「大和絵師」と名乗って現れたのが、[[菱川師宣]]である。[[安房国]]の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」([[東京国立博物館]]蔵)に代表される掛物(いわゆる「掛け軸」)のほかに、巻子(かんす。いわゆる「まきもの」)、[[絵本]]や[[浮世草子]]、[[枕絵]]などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、[[上方]]のそれに肩を並べる契機となる{{Sfn|田辺|2016|pp=8-11}}。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「[[丹絵]]」が表れ、一枚摺りも登場する{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=300-301|ps=武藤純子「丹絵」}}{{Sfn|千葉市美術館|2016|p=78|ps=田辺昌子「[[杉村治兵衛]] 女三宮とかしわぎのゑもん 」(東京国立博物館蔵。[[重要美術品]]。 )など}}。
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春信の錦絵は、絵暦以外でも、[[和歌]]や[[狂歌]] 、『[[源氏物語]]』『伊勢物語』『[[平家物語]]』などの中世文学を、当世風俗画に当てはめて描く「[[見立絵]] 」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。パトロンを対象とした、高価格{{Refnest|group=注釈|宝暦年間(1751-64年)の細判(約33×15センチ)紅摺絵が1枚四文程度だったのに対し、春信の中判(約29×22センチ)錦絵は百六十文だった。{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=260|ps=藤澤紫「鈴木晴信」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=409|ps=岩崎均史「判型」}}}}の[[摺物]]{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=266-269|ps=浅野秀剛「摺物」}}であり、[[ユニセックス]]な人物描写も含め、庶民を購入対象にはしていなかった{{Refnest|group=注釈|春信と交流のあった[[太田南畝]]の『半日閑話』明和七年六月の項に「この人一生役者の絵をかかずして云、我は大和絵師なり。何ぞ河原者の形を画くにたへんやと」とある。実際には、1760年(宝暦10年)以降の作品に、複数の役者絵が残されているが、「思古人しこじん」の号を持つ、春信の心情が分かる言葉である{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=260|ps=藤澤紫「鈴木晴信」}}。}}。
 
墨の代わりに[[ツユクサ|露草]]等の[[染料]]を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=463|ps=田辺昌子「水絵」}}{{Refnest|group=注釈|20世紀の終盤、立原位貫(たちはら・いぬき)は、春信らが用いた染料を復元し、摸刻摸摺をした{{Sfn|目黒区美術館|2016|pp=126-129、156-157}}<ref>{{Cite web|url=http://inuki-art.com/profile.html|title=立原位貫オフィシャルホームページ|accessdate=2020-04-01}}</ref>。}}。
 
[[勝川春章]]は安永年間(1772-81年)に細判{{Refnest|group=注釈|約33×15センチ{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=409-411|ps=岩崎均史「判型」}}役者絵は、興行を見てから下絵を描き、彫摺するので、小さい判の方が早く版行出来て、有利である{{Sfn|大久保|2014|pp=173-174}}}}錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、[[相撲絵]]市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=126-127|ps=内藤正人「勝川春章」}}{{Refnest|group=注釈|{{Cite web |url=http://www.moaart.or.jp/collections/077/|title=雪月花図 勝川春章筆。MOA美術館所蔵。重要文化財。|accessdate=2020-04-03}}}}。弟子の[[勝川春好|春好]] は、役者[[大首絵]]を初めて制作した{{Sfn|大久保|2014|pp=226-227|ps=田辺昌子「二代目市川門之助の曽我五郎 勝川春好」}}。
 
[[File:TORII Kiyonaga. Cherry blossoms viewing at Asukayama.Edo,Japan.Metroporitan Museum collection.,USA.jpg|thumb|300px|鳥居清長「飛鳥山の花見」、1780年代後半。]]
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方や歌川広重は、『東都名所』(1830-31・文政13-天保2年頃)で、「ベロ藍」を初めて用いるが、北斎に比べると、抑えた色使いであった。31年(天保2年)、幕命で京都間を往復し、その間での写生をもとに、版元[[保永堂]]から『[[東海道五十三次]]』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、55枚を[[画帖]]に仕立てたものもあり、武家や豪商も購入していたことが推測できる。上記2揃は、『富嶽三十六景』と版行時期が重なるが、広重が北斎を意識していただけでなく、版元の決断が大きいであろう{{Sfn|日野原|2014|p=191}}。最晩年の1856-58年(安政3-5年)に、版元[[魚屋栄吉|魚屋(さかなや・ととや )栄吉]]{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=212|ps=市川信也「魚屋栄吉」}}の下、目録を含め全120枚揃い(うち1枚は[[歌川広重 (2代目)|二代広重]]筆)の『[[名所江戸百景]]』が版行される。
[[File:Utagawa Kunisada II - Actor Nakamura Tsuruzô I as Awayuki Nashirô.jpg|thumb|200px|歌川国貞「淡雪奈四郎としての中村鶴蔵」、1852年。]]
本シリーズのベロ藍だけでなく、[[アニリン|洋紅]]も用いられるが、『東都名所』同様、抑えられた色使いになっている。また広角レンズを用いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、名所絵としては異例だが、『東都名所』で行ったのと同様、最初から画帖に仕立てる考えがあったからと思われる{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=67-68|ps=市川信也「歌川広重」}} {{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=476-478|ps=原信田実「名所江戸百景」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=179-181}}。画帖は現在、東洋文庫等に収蔵されている{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url= http://124.33.215.236/gazou/Edohyakkei.html|title=財団法人[[東洋文庫]]所蔵・岩崎文庫江戸百景 歌川廣重 一世画・二世補|accessdate=2020-04-04}}}}。
 
[[歌川国貞]]は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。[[柳亭種彦]]と組み、『[[偐紫田舎源氏]]』等の[[合巻]]の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元[[恵比寿屋庄七]]での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや[[空摺り]]・[[布目摺り]]、高価な[[顔料]]を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=64-65|ps=大久保「役者絵製作の舞台裏」}}。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=53-54|ps=藤澤茜「歌川国貞」}}{{Sfn|大久保|2014|pp=178、255-256}}。
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1854年(嘉永7年)3月、 [[日米和親条約]]により、200年以上に渡る「[[鎖国]]」は終焉した。58年(安政5年)には [[日米修好通商条約]]及び[[オランダ]]・ [[ロシア]]・[[フランス]]・[[イギリス]]と、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた [[下田]]・ [[函館]]2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い[[横浜]]は、翌59年(安政6年)に開放され、江戸・神奈川{{Refnest|group=注釈| 県名の神奈川ではなく、東海道五十三次に含まれる地名。当初は横浜ではなく、神奈川が開港される予定だった。}}の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「[[横浜絵]]」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は [[歌川芳虎]] ・ [[歌川芳員|芳員]]ら、国芳門下が多い{{Sfn|小林・大久保|1994|pp=109-110|ps=大久保「横浜絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=504-505|ps=横田洋一「横浜浮世絵」}}。また、[[五姓田芳柳]]らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる{{Sfn|鍵岡|2008|pp=12-16}} 。
 
そんな時代の転換期、1866-67年(慶応2-3年)に、国芳の門人である[[月岡芳年]]と、芳年の弟子である[[落合芳幾]]による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、[[鶴屋南北]]作『[[四谷怪談#『東海道四谷怪談』|東海道四谷怪談]]』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「[[無残絵|血みどろ絵]]」である{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=283-284|ps=菅原真弓「大蘇芳年」}}{{Sfn|山下|2013|p=234|ps=菅原真弓「英名二十八衆句 直助権兵衛 稲田久兵衛新助」}}。同時期に、[[土佐国]]の町絵師、[[絵金]]が芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双{{Refnest|group=注釈|にそう。二つ折りの屏風。}}屏風を残した{{Sfn|高知県立美術館|2012|pp=1-238}}{{Refnest|group=注釈| {{Citeweb|url=https://www.ekingura.com/index.html|title=絵金蔵|accessdate=2020-04-24}}}}これらの作品が生まれたのは、当時、実際に切り捨てられた屍骸を見る機会があったからだろうと指摘される{{Sfn|山下|2013|p=234|ps=菅原真弓「英名二十八衆句 直助権兵衛 稲田久兵衛新助」}}。
 
=== 明治以降 ===
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[[File:KOBAYASHI Kiyochika View of Fireworks at Ryohgoku,Tokyo.jpg|thumb|240px|小林清親「東京名所図・両国花火之図」、1880年。]]
1868年(慶応4年)7月、江戸は「[[東京]]」に改められ、9月に明治に改元、翌69年(明治2年)2月に[[明治天皇|天皇]]が[[江戸城|旧江戸城]]に入り、名実ともに日本の[[首都]]となる。1872年(明治5年)には、[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-[[桜木町駅|横浜]]間に[[鉄道]]が開通し{{Refnest|group=注釈|先述の「横浜絵」の下限を1872年としたのは、鉄道開通によって、時代の最先端が、横浜から東京に移ったことを意味している。}}、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「[[擬洋風建築]]」が建てられてゆく{{Sfn|清水|2013|p=212}}。それに[[人力車]]・[[馬車]]や[[ガス燈]]など、東京の変遷ぶりを描いたのが「[[開化絵]]」である。[[歌川広重 (3代目)|三代広重]]や、[[歌川国輝|国輝]]らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い{{Sfn|小林・大久保|1994|p=110b|ps=大久保「開化絵」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=55|ps=藤澤茜「(二代)歌川国輝」}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=68|ps=市川信也「(三代)歌川広重」}}{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.gasmuseum.jp/mnw/?tag=%e3%81%8c%e3%81%99%e3%81%a8%e3%81%86|title=ガスミュージアム・明治浮世絵の世界・ガス燈|accessdate=2020-04-18}}}}。
 
[[File:Autumn Moon at Tōin - Hirai Inaba-no-kami Yasumasa and the Thief Hakamadare Yasusuke.jpg|thumb|280px|月岡芳年・春亭「美談武者八景 洞院の秋月」。]]
[[小林清親]]は、下級武士として、将軍[[徳川家茂|家茂]]・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、[[静岡県#近代|静岡]]へ。1884年(明治7年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「[[光線画]]」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる、「近代」の作品と言える{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=203-204|ps=岡本祐美「小林清親」}}{{Sfn|練馬区立美術館・静岡市美術館|2015|pp=194-202}}。
 
[[File:Zenken-kojitu vol.6 FUJIWARA Yasumasa.jpg|thumb|160px|菊池容斎『前賢故実』巻6「藤原朝臣保昌」{{Refnest|group=注釈|{{Cite book|和書|author=[[菊池容斎]]|title=前賢故実卷六|year=1868|doi=10.11501/778242}}}}。]]
幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「[[歴史画]]」に注力する。これは彼の志向というより、時代の趨勢が大きい。開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、1876年(明治9年)には[[工部省]]が「[[工部美術学校]]」を設立し、イタリア人画家・[[彫刻]]家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の[[工芸品]]の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることになるのである。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた[[狩野芳崖]]・[[橋本雅邦]]らは、[[文部省|文部]]官僚の[[岡倉天心]]と、政治学・哲学の[[お雇い外国人|お雇い教師]] として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にする[[アーネスト・フェノロサ]]の、洋画と[[南画]]を排斥した、新しい絵画{{Refnest|group=注釈|山下は『狩野派復古主義』と呼ぶ{{Sfn|山下|2013|p=176}}。なお「日本画」という用語は、「洋画」に対する対立概念であり、明治20年代に登場し、30年代に一般にも定着する{{Sfn|古田|2018|p=85-108}}。}}を生み出す主張に同調する{{Sfn|辻|2005|pp=346-350}}。
 
その時代に注目されたのが、[[菊池容斎]]の『[[前賢故実]]』(全10冊。1843(天保14)-68(明治元)年。)である。[[神武天皇]]から[[南北朝時代 (日本)|南朝時代]]の[[後亀山天皇]]時代までの公家・貴族・僧・武士・[[女房]]ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、彼らの描写が正しいのか、150年以上を経た今となっては疑問が残るが、明治10-20年代に、画家の「粉本」{{Refnest|group=注釈|ふんぽん。狩野派で用いられた、見習い用の絵手本。これを写して絵を学んだ。写生は尊ばれなかった。}}として盛んに引用される。芳年の引用例を挙げる。また「歴史画」は、浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる{{Sfn|兵庫県立近代美術館・神奈川県立近代美術館|1993|pp=11-23、33-102}}{{Sfn|塩谷|2013|pp=185-190}}。
 
日露戦争以降、[[新聞]]や[[雑誌]]、[[絵葉書]] などが普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.ndl.go.jp/landmarks/column/5.html|title=国立国会図書館 明治の錦絵|accessdate=2020-03-30}}}}。
 
[[File:YAMAMURA kohka Morita Kanya XIII 1921.jpg|thumb|130px|山村耕花「『梨園の華』より、十三世守田勘弥のジャン・バルジャン」、1921年。]]
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そのような逆風下、[[渡辺庄三郎]]は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、「版元」として立つ。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正期に入り、絵師と交渉して、[[新版画]]を制作するようになる。[[橋口五葉]]・[[伊東深水]]・[[川瀬巴水]]・[[山村耕花]]らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。
1923年(大正12年)、[[関東大震災]] によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、
渡米経験のある[[吉田博]]を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は1962(昭和37年)に亡くなる{{Sfn|山梨|1997|pp=71-80}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|pp=522-523|ps=岩切信一郎「渡辺庄三郎」}}が、彼の版元は21世紀でも健在である{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.hangasw.com/|title=株式会社渡邊木版美術画舗|accessdate=2020-05-01}}}}。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.adachi-hanga.com/|title=株式会社アダチ版画研究所|accessdate=2020-05-01}}}}。
 
==浮世絵の画題 ==
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大久保(1994){{Sfn|小林・大久保|1994|pp=27-110|ps=大久保「主題を知るための基礎知識」}}を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。
 
[[File:Journey to the Nirvana, ICHIKAWA DanjuroVIII.jpg|thumb|230px|死絵。[[市川團十郎 (8代目)|八代目市川團十郎]]。1854年。[[涅槃図]]の見立て。三十余で自害した為、死絵で最も多く描かれた役者。周りで泣くのは女性ばかり{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/imgdb/index.html|title=大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館 画像データベース|accessdate=2020-05-17}}}}。]]
;[[美人画]]: 成人女性を描いたもので、狭義の「美人」には限らない。茶屋の看板娘や、遊女が多く描かれた。
;[[見立絵]]:和漢の故事や[[謡曲]]の場面を当世装束に当てはめて描いたもの。和歌や漢詩は記されても、細かな説明はない。
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== 展示と保存法 ==
現代の美術館では、中性紙の厚紙(マット)の中央をくりぬき、もう一枚のマットと挟み込んで、保存する。展示時はそれを額装する{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://webshop.sekaido.co.jp/feature/580|title=世界堂オンラインショップ-額の種類と用途|accessdate=2020-03-30}}}}。紫外線による褪色を防ぐため、直射日光を避け、紫外線カットの照明下で展示すべきである。通年展示してはならない{{Sfn|田邊・登石|1994|pp=291-294、317-318}}{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/hokoku/pdf/r1401204_01.|format=PDF|title=平成8年7月12日文化庁長官裁定平成30年1月29日改訂国宝・重要文化財の公開に関する取扱要項|accessdate=2020-03-30}}}}。
 
展示しないときの保存方法としては、額から外し、水平に置くことが望ましく、変色を防ぐため、[[防虫剤]]の入っていない[[箪笥|桐箪笥]]など、湿度調整が効く箱に仕舞うことが良い{{Sfn|田邊・登石|1994|pp=317-318}}。
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1856年、[[フェリックス・ブラックモン|ブラックモン]]が、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、現在では疑問視されている{{Sfn|永田|1990|p=150}}{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=445|ps=津田卓子「北斎漫画」}}。
 
[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]が『[[タンギー爺さん]]』の背景に浮世絵を描き込んだり、[[歌川広重]]の作品を模写した。[[エドゥアール・マネ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[メアリー・カサット]]、[[ピエール・ボナール]]、[[エドゥアール・ヴュイヤール]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]、[[ゴーギャン]]らにも影響を与えた{{Refnest|group=注釈|{{Cite web|last=Ives|first=Colta Feller|date=1974|url=http://www.metmuseum.org/art/metpublications/|title=The Great Wave The Influence of Japanese Woodcuts on French Prints The Great Wave:The Influence of Japanese Woodcuts on French Prints|publisher=Metropolitan Museum of Art|accessdate=2020-04-20}}}}。
 
日本美術を取り扱っていた[[ビング]]は、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた{{Sfn|国際浮世絵学会|2008|p=426|ps=及川茂「ビング、ジークフリート」}}。
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===注釈===
{{Reflist|2|group=注釈}}
 
===出典===
{{Reflist|225em}}