「相馬利胤」の版間の差分

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[[慶長]]元年([[1596年]])、従五位下・大膳亮に叙任。慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]では父の義胤が佐竹家とともに中立を決め込んだため、[[徳川家康]]によって所領を没収され、[[改易]]の危機に立たされた。このとき秋田に転封された佐竹義宣から所領を裾分けするという誘いを受け、義胤は秋田に移るもやむを得ずという結論に達したが、三胤は義胤の前に進み出て、
 
:「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」
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:「自分は尊慮の他に存奉る。当家代々将軍に扈従し、今飢寒を凌がんとて佐竹の旗下になり、苗字を汚さんは更に詮無し。自ら江戸へ出府し、両大君の御念を鎮め、少分の恩沢にも預かり、旗本に苗字を残すにおいては本望、左なくば家を滅するか罪科を受くべし」
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と訴えた。義胤はこの案を採用し、三胤は石田三成由来の「三」の字を改め'''蜜胤'''(読みは同じく「みつたね」)と名前を変え、わずかの家臣を伴い、直訴のため自ら江戸に赴いた。幕閣に取り入る縁故は全くなかったが、義胤の旧縁を頼りに大身旗本の[[島田重次]]を頼り、[[本多正信]]のとりなしを得ることに成功した。家康・秀忠への正信の説得もあり、蜜胤は所領を安堵された。『[[藩翰譜]]』によれば、このとき相馬家の仇敵でもあった[[伊達政宗]]のとりなしもあったというが、同書の成立は100年後のことであり、これについては間違った情報であるという説もある。