「宮武外骨」の版間の差分

外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年([[1901年]])に[[大阪]]で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためで、外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、[[板橋菊松]]、[[森近運平]]、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人。印刷は福田友吉が担当した。
 
モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと[[前野一廣]]、[[竹久夢二|竹久茂次郎]])の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字([[文字]]や[[約物]])を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法([[アスキーアート]]や[[縦読み]]など)の原形も見られる。[[検閲]]などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった<ref>この頃の雑誌発行は競合誌と発行を競うあまり発売予定日よりも早刊となる傾向があった事から「早刊も延刊も不都合にあらず」と誌面で自らを棚に上げて他誌を皮肉る事もあった。</ref>。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も『いろは新聞』『東京滑稽新聞』『あづま滑稽新聞』『滑稽界』『東京滑稽』『江戸ツ子』『ポテン』『滑稽雑誌』『[[名古屋]]滑稽』『[[釜山]]滑稽新聞』など多数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。先述の野口茂平に対しては、野口が[[名誉毀損罪|誹毀罪]]で告訴したためもあるが、毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど長期間にわたって追跡する記事が多かった。これらが他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた<ref>たまたま花見の時に外骨は人を介して野口に面会させられた。野口が「あれは最初私が悪かッたのです」と謝罪したこと、『滑稽新聞』がインチキ医薬品と批判した「肺勞散」の発売を停止しその旨新聞各紙に告知するという外骨の条件を野口が容れたことから、『滑稽新聞』通巻100号を以て野口批判は終了した。ただし、顧問弁護士には妥協してはいかんと叱られたとのこと。外骨は普段他人の招待に応じず、訪問もしないのは一度顔見知りになれば人情として批判記事を書きにくくなるからだと述懐し、野口と面会させられたことでさらにこの感を深くしたという(『滑稽新聞』98〜99号)。</ref>
 
重複になるが、たとえば野口に対しては野口が[[名誉毀損罪|誹毀罪]]で告訴したためもあるが毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど同じ対象を長期間にわたって追跡する記事が多かったのも特徴である。もっとも、他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた<ref>たまたま花見の時に外骨は人を介して野口に面会させられた。野口が「あれは最初私が悪かッたのです」と謝罪したこと、『滑稽新聞』がインチキ医薬品と批判した「肺勞散」の発売を停止しその旨新聞各紙に告知するという外骨の条件を野口が容れたことから、『滑稽新聞』通巻100号を以て野口批判は終了した。もっとも、顧問弁護士には妥協してはいかんと叱られたということである。外骨は普段他人の招待に応じず、訪問もしないのは一度顔見知りになれば人情として批判記事を書きにくくなるからだと述懐し、野口と面会させられたことでさらにこの感を深くしたという(『滑稽新聞』98〜99号)。</ref>。
 
明治41年([[1908年]])10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(31号までで外骨は編集を離れたが、大正3年([[1914年]])まで存続)。同誌では批判対象の[[伊藤博文]]・[[井上馨]]・[[山縣有朋]]の死期を当てる[[懸賞]]という不謹慎企画を立てた(明治42年([[1909年]])[[10月15日]]号、通巻24号)<ref>申込1口1円で年月日の的中者には1万円、年月の的中者には1000円、年の的中者には100円を抽選で1名に贈るとあった。</ref>。外骨は懸賞商法を批判していたが[[内務省 (日本)|内務省]]が10月15日付で規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が[[安重根]]に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して[[津田三蔵]]<ref>『滑稽新聞』明治37年([[1904年]])[[2月15日]]号(通巻66号)では[[日露戦争]]に際して、「津田三蔵を特別赦免すべし」と題し、「(津田の)動機は熱誠の愛國心である、<u>現今我政府我國民一般が露國に対する感情と同一である</u>」(下線は原文[[圏点|傍点]])と主張した。ただし、津田は[[1891年]]に既に死去しており、ここでの赦免とは名誉回復という意味合いである。『滑稽新聞』2月25日号(通巻67号)では、読者の指摘に対して「([[西南戦争]]で[[売国奴#国賊|国賊]]とされた)[[西郷隆盛]]と同様に、死後の[[恩赦#種類|特赦]]を奏請すべしと論じたのだ」と回答している。</ref>や[[小山豊太郎|小山六之助]]([[李鴻章]]襲撃犯)を例に挙げ<ref>いずれも外国要人を襲撃した日本人である。ただし、いずれも被害者は一命を取り留めている。</ref>、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と[[社会主義]]」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた[[国家社会主義]]によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は[[新聞紙法]]違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。
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