「明恵」の版間の差分

[[遁世僧]]となった明恵は、[[建永]]元年([[1206年]])、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]から栂尾の地を下賜されて[[高山寺]]を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、[[戒律]]を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した<ref name=oosumi/>。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された<ref name=fujita/>。高山寺の寺号は、『[[華厳経]]』の「日出でて先ず高山を照らす」という句によったといわれている<ref name=fujita/>。この地には[[貞観 (日本)|貞観]]年間([[859年]]-[[877年]])より「度賀尾(とがお)寺」という古寺があったものの年月を経て著しく荒廃しており、明恵はこれに改修を加えて道場とした<ref group="注釈">承久元年(1219年)には[[本堂|金堂]]が完成して快慶作の釈迦如来像が安置され、[[嘉禄]]元年([[1225年]])には鎮守堂、嘉禄3年([[1227年]])には[[三重塔]]なども建立されて明恵在世中、大門や阿弥陀堂もつくられた。[[#藤田|藤田(1966)p.178]]</ref>。
 
明恵は、[[法相宗]]の[[貞慶]]や[[三論宗]]の[[明遍]]とならび、しばしば超人的な学僧と評される<ref name=oosumi/>が、学問としての教説理解よりも実際の修行を重視し、きびしく戒律を護って身を持することきわめて謹厳であった<ref name=fujita/>。上覚からは[[伝法灌頂]]を受けており、学問研究と実践修行の統一を図った<ref name=n2004/>。その人柄は、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがいささかもなかった。かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたものであった<ref name=fujita/>。たとえば、[[在家]]の人びとに対しては[[三時三宝礼]]の行儀により、『[[観無量寿経]]』に説く[[九品|上品上生]]によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど<ref>[{{NDLDC|952667/110}} 『三時三宝礼釈』 - 日本大蔵経. 第42巻 宗典部 華厳宗章疏 下]</ref><ref>[http://kominato-kataumi.jimdo.com/%E5%A6%99%E6%B3%95%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%BD%A2%E7%9B%B8%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6-2/ 妙法曼荼羅の形相の起源をめぐって 2]</ref>、後述するように、表面的には[[専修念仏]]をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く[[易行]]の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった<ref name=ienaga128>[[#家永|家永(1982)pp.128-129]]</ref>。なお、[[松尾剛次]]は、明恵を[[祖師]]とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる<ref name=matsuo37/>。
 
[[建暦]]2年([[1212年]])、[[法然]]批判の書『[[摧邪輪]]』を著しており、翌年には『摧邪輪荘厳記』を著してそれを補足している。[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]では後鳥羽上皇方の敗兵をかくまっている<ref name=n2004/>。[[貞応]]2年([[1223年]])[[7月 (旧暦)|7月]]、明恵の教団によって[[山城国]]善妙寺の落慶供養がおこなわれたが、この寺は、[[中御門宗行]]の後妻が承久の乱の首謀者のひとりとして[[鎌倉]]への護送中に斬殺された夫の[[菩提]]を弔うために建てた[[尼寺]]であり、[[本尊]]は高山寺に安置されていた[[釈迦如来]]像が遷されたものであった<ref>[[#松尾|松尾(1995)pp.136-137]]</ref>。
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