「陰陽師」の版間の差分

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その後、[[天武天皇]]が[[壬申の乱]]の際に自ら[[式盤|栻]](ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や[[遁甲]]の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年([[676年]])に陰陽寮や日本初の[[占星台]]を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、[[養老]]2年([[718年]])の[[養老律令]]において、中務省の[[内局]]である[[寮 (律令制)|小寮]]としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として[[天文博士]]・[[陰陽博士]]・[[陰陽師 (律令制)|陰陽師]]・[[暦博士]]・[[漏刻博士]]が常置されることも規定されると、陰陽寮は[[神祇官]]に属する[[卜部氏|卜部]]の[[亀卜]](きぼく、[[亀甲]]占い)と並んで公的に[[式占]]を司ることとなった。
 
陰陽寮は[[四等官制]]が敷かれ、[[陰陽頭]](おんみょうのかみ)以下の[[事務官|事務方]]である[[行政官]]と、技官として方技の各博士及び各[[学生|修習生]]、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ[[漢文]]の読解に長けた[[渡来人]]、おしなべて中国本土の[[前漢]]・[[後漢]]・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった[[新羅]]から帰来した学僧が任命され、特に[[天智天皇]]2年([[663年]])に日本が親密国であった百済に援軍を出した[[白村江の戦]]の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官されており{{誰|date=2011年5月}}、また、方技は[[官人]]の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。
 
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「[[風水]]」的なもの)、[[天体観測]]、[[占星術|占星]]、暦(官暦)の作成、[[吉日]][[凶日]]の判断、[[漏刻]]([[水時計]]による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって[[予言]]するだけであって、神祇官や僧侶のような[[宗教]]的な[[儀礼]](祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、[[朝廷|宮中]]において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで[[遷都]]の際などに重要な役割を果たした。
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