「宮武外骨」の版間の差分

 
===『スコブル』以降 ===
大正4年([[1915年]])、[[第12回衆議院議員総選挙]]に立候補し「政界廓清(かくせい)・[[選挙違反]]告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。[[落選運動]]の走り的存在といえた。結果は259票と、[[法定得票]]には辛くも到達したが落選。当時、[[制限選挙]]のため有権者数が少ないせいもあったが、一部の高額納税者にしか[[選挙権]]が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。
 
大正5年([[1916年]])、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年([[1917年]])、[[第13回衆議院議員総選挙]]でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、[[東京市]]、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の[[厚田正二]]、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の[[伊藤痴遊#初代|伊藤痴遊]]も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。
匿名利用者