「浮田幸吉」の版間の差分

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その後、[[駿河国]]駿府(現在の[[静岡県]][[静岡市]])に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。
 
晩年は不詳で、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、[[遠江国]]見附(現在の静岡県[[磐田市]])に移り妻子を得て平穏な余生を送り、[[1847年]](弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられてい。墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」
 
幸吉の飛行が事実であるならば、それは[[1849年]]の[[ジョージ・ケイリー]]の[[グライダー]]による有人滑空実験よりも60年以上早い。とはいえ、幸吉この種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている(下記リンク参照)。また、'''重航空機に限らなければ'''、有人飛行は[[モンゴルフィエ兄弟]]の熱気球によって幸吉の飛行の2年前の1783年11月に達成されている。
墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」。
 
なお、[[1997年]](平成9年)(没後150年余り?)には旧岡山藩主[[池田氏|池田家]]当主・[[池田隆政]]より、幸吉の岡山所払いが許されている。
幸吉の飛行が事実であるならば、それは[[1849年]]の[[ジョージ・ケイリー]]の[[グライダー]]による有人滑空実験よりも60年以上早い。とはいえ、幸吉はこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている(下記リンク参照)。また、'''重航空機に限らなければ'''、有人飛行は[[モンゴルフィエ兄弟]]の熱気球によって幸吉の飛行の2年前の1783年11月に達成されている。
 
なお、[[1997年]](平成9年)(没後150年余り?)には旧岡山藩主[[池田氏|池田家]]当主・[[池田隆政]]より、幸吉の岡山所払いが許されている。
 
== 幸吉を題材にしたフィクション ==