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== 概要 ==
出口王仁三郎は、大本において'''聖師'''と呼ばれる<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁</ref>。強烈な個性と魅力と[[カリスマ]]を持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた<ref>[[#村上(1973)]]1-2頁、[[#帝国時代のカリスマ]]167頁</ref>。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難浴びる<ref>[[#宗教の昭和史]]33頁、[[#帝国時代のカリスマ]]33頁</ref>。その評価は現在でも定まっていない<ref>[[#10人の宗教家]]235頁、[[#人間解放の福祉論]]55.107頁、[[#神界のフィールドワーク]]452頁</ref>。いわゆる「[[国家神道]]」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]28.290頁、[[#人間解放の福祉論]]9頁</ref>。[[太平洋戦争]]終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。の思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた<ref>[[#帝国時代のカリスマ]]27.67.287頁</ref>。
 
王仁三郎の読み方について「わにさぶろう」とされることあるが、正しくは「おにさぶろう」。大本の開祖である[[出口なお]]のお筆先([[自動書記]])で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する<ref>[[#いり豆の花]]529頁、[[#霊界からの警告]]86頁</ref>。ただし「わに」を使用した例もあり<ref name="#屹立するカリスマ75頁">[[#屹立するカリスマ]]75頁</ref>、[[百済]]から日本に[[漢字]]と[[儒教]]を伝えた学者[[王仁]](わに)との関連を指摘する研究者もいる<ref>[[#村上(1973)]]94頁、[[#帝国時代のカリスマ]]60頁</ref>。またマスコミが挿絵中で[[ワニ]]の姿で表現した事例もあった<ref>[[#巨人王仁三郎('95)]]188頁、[[#あるカリスマの生涯]]122頁</ref>。
 
もう一人の教祖(肩書きは「開祖」)は、[[出口なお|出口なお(直)]]。[[1916年]](大正5年10月)、「…未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊で…」という神からの啓示が出口なお降りたため敵対していた出口王仁三郎と手を組むことになった。しかし、王仁三郎は「霊界物語」第13巻信天翁において、「今大本にあらはれた変性女子(=王仁三郎)は似而非ものだ、みのか尾張の国の中変性女子が判明すれば大本も駄目だらう」と書き示している。