「仙台四郎」の版間の差分

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江戸時代から[[1880年代]]まで、北一番丁[[勾当台通]]の角、旧・[[宮城県庁舎|宮城県庁]]構内[[郵便局]]の場所に火の見櫓があり<ref>[http://eichi.library.pref.miyagi.jp/eichi/detail.php?type=3&literatureId=61172 天保4年(1833年)御城下町割繪圖]([[宮城県図書館]])</ref>、北一番丁通りを挟んで北向い(現・[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]役所辺り)は少なくとも[[19世紀]]中は「櫓下」と呼ばれていた({{ウィキ座標|38|16|8.3|N|140|52|13.6|E|region:JP|地図|name=19世紀に「櫓下」と呼ばれていた辺り}})<ref name="smt1980">{{PDFlink|[https://lib-www.smt.city.sendai.jp/localdata/miyagino_kyodoshi.pdf 要説 宮城の郷土誌]}}([[仙台市民図書館]]編、1980年3月31目発行)p.265-267 『104「しろばか」について』</ref>。この「櫓下」には[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[伊達政宗]]の代より[[伊達氏]]([[仙台藩]])に仕えた[[砲術]]師を祖とする[[鉄砲鍛冶]]職人・芳賀家<ref>[http://www.hagafireworks.jp/about/history.html 沿革](株式会社 芳賀銃砲火薬店 芳賀火工)</ref>があり、その四男として生まれたとされる<ref name="kahoku20150619"/><ref name="smt1980"/>。そのため「'''櫓下四郎'''」とも呼ばれた<ref name="smt1980"/>。
 
四郎の知的障害には2つの説があって、生まれつきという説と、そうではなく、7歳の時花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となり、それったことが元で知的障害となったという説がある。言葉についても「バヤン」(「ばあや」の意)などとしか話せなかったとする説と、普通に会話も出来たとする説とがある<ref name="relatives"/>。
 
その後、四郎は気ままに市中を歩き回るようになった。行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれた。子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという。
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