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'''興善惟寛'''(こうぜんいかん)。[[755年]] - [[817年]]{{sfn|岩村|1996|p=109}}は、[[中国]]の[[唐]]代の[[禅]][[僧]]。[[諡号]]は'''大徹禅師'''{{sfn|岩村|1996|p=110}}。 [[百丈懐海]]、[[南泉普願]]、[[西堂智蔵]]とともに、[[馬祖道一]]の弟子である<ref>{{kotobank|馬祖|2= 世界大百科事典 第2版}}</ref>。興善惟寛の弟子には、義崇、円鏡がいる{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。『[[宋高僧伝]]』巻十、『[[景徳傳燈録]]』巻七に僧伝が掲載されている{{sfn|鈴木|1996|p=109}}。また、[[白居易]]が興善惟寛の碑銘を書いた(『西京興善寺伝法堂碑銘并序』が『全唐文』六百七十八に記載){{sfn|鈴木|1996|p=109}}。[[西安]]の'''大興禅寺'''の僧舎である'''伝法堂'''に住していた{{sfn|鈴木|1996|p=109}}。禅宗史学者の[[石井修道]]は、[[馬祖道一]]門下のうち興善惟寛が北を宗とし、[[西堂智蔵]]が南を宗として、五祖[[弘忍]]門下の[[神秀]]と[[慧能]]のようであったと述べている{{sfn|石井|1978|p=283}}。
 
== 生涯 ==
[[浙江省]][[衢州市|衢州]][[信安県]]の生まれ{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。13歳で'''曇受'''について出家し([[768年]])、[[戒]]を'''蔵崇'''に、[[律 (仏教)|律]]を'''如証'''に、大乗法を'''止観'''に学んだ{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。[[773年]]頃以降の時期に、[[馬祖道一]]が[[洪州]]開元寺([[南昌]])に移って以降、彼の下に学んだ{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。24歳で具戒した([[779年]]){{sfn|鈴木|1996|p=110}}。
 
35歳([[790年]])の時、[[福建省|福建]]、[[浙江省|浙江]]の間を行化(行脚)する{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。36歳([[791年]])の時、[[会稽]]([[浙江省]][[紹興市]])に'''勝家道場'''を、37歳([[792年]])の時、[[鄱陽県|鄱陽]]([[江西省]])に'''廻向道場'''を作る{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。42歳([[797年]])の時、[[嵩山少林寺]]([[河南省]])に、50歳([[805年]])の時、衛国寺([[洛陽]])に、51歳([[806年]])の時、天宮寺([[洛陽]])に住した{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。54歳([[809年]])の時、[[唐]]の第14代皇帝[[憲宗]]は、興善惟寛を[[長安]]の'''大安国寺'''に召し謁見、翌[[810年]]、[[大明宮]]の麟徳殿で憲宗が興善惟寛に法を問うた{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。[[白居易]]の碑銘には、興善惟寛が住したため不空三蔵池に霊泉が蘇ったと記されているが、この池が大興善寺にあるため、この時に興善惟寛が大興善寺に住していたと思われると、仏教学者の[[鈴木哲雄 (仏教学者)|鈴木哲雄]]は述べている{{sfn|鈴木|1996|p=110}}。
 
 
== 出典 ==