「村井多嘉子」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1880年]]([[明治]]13年)[[7月]]頃{{Efn|村井多嘉子の出生日について、山本文乃{{Sfn|山本文乃|1982|p=47}}は1879年生まれ、丸島隆雄{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=7}}と星賀典子{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}は1880年7月6日生まれ、黒岩比佐子{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}は1880年7月11日生まれとしている。}}、母・尾崎峯子と元[[志士]]([[鍋島藩]]{{Sfn|飯田喜代子|1997|p=144}})の父・尾崎宇作との間に生まれる{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}。当時、尾崎家は火事に遭い、[[東京]][[駿河台]]にあった親族の[[後藤象二郎]]宅に避難していた{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}。後藤は峯子の妹・雪子の夫であり{{Sfn|飯田喜代子|1997|p=144}}、峯子が宇作と結婚したのも後藤の縁であった{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}。そのほか親戚には、雪子の養父に[[岩崎弥太郎]]{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=8}}{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}、峯子の弟に[[井上竹次郎]]{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=8}}{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=188}}、宇作の従兄に[[大隈重信]]{{Sfn|飯田喜代子|1997|p=144}}{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=115}}がいた。なお、「多嘉子」というのは通称で、戸籍名は「多嘉」{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=7}}もしくは「たか」{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=115}}{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=386}}である。二人の兄がおり、末っ子の多嘉子は可愛がられて育ったとされている{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=189}}。
 
父が事業を始めたことに伴って8歳から[[大阪]]で暮らし{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=189}}、16歳の時に東京に戻ってきてからは[[高輪]]に移った後藤宅の別棟で過ごした{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=9}}。後藤宅には著名人も数多く訪れ、浄瑠璃の名人や[[市川團十郎 (9代目)|市川團十郎]]、[[尾上菊五郎 (5代目)|尾上菊五郎]]らの芸を見聞きしていた{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=189}}。村井弦斎研究で知られる[[黒岩比佐子]]は、村井多嘉子が育った環境はけた外れに贅沢な生活であったとし、「文字通りの深窓の令嬢」と形容している{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=189}}。
== 業績・評価 ==
=== 『食道楽』への貢献 ===
夫・弦斎の小説『[[食道楽 (村井弦斎)|食道楽]]』は、当時としては異例の10万部{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=78}}{{Sfn|飯田喜代子|1997|p=144}}、シリーズ累計では50万部近くを売り上げるベストセラーとなった{{Sfn|火坂雅志|2004|p=59}}。同作は小説であると同時に、和・洋・中の630種の料理、食に関する知識を伝授する形で展開される料理書の一種でもあり{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=78}}、嫁入り道具や食通本として扱われ{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}、美食ブームを巻き起こした{{Sfn|火坂雅志|2004|p=63}}。『食道楽』の執筆に多嘉子は深く関わった{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}。
 
弦斎が『食道楽』を執筆したのは、多嘉子の素人離れした手料理を堪能するうち、食を中心にして近代的な家庭生活を説く実用書を思いついたためとされる{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}。弦斎は、自分でほとんど厨房に立つことがなかったため、料理に関する実践的知識の多くを多嘉子に頼っており{{Sfn|火坂雅志|2004|p=61}}、レシピの考案には多嘉子が協力に当たった{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}。小説の題材は、当初は多嘉子が作る家庭料理の中から選ばれ、その後は多嘉子の親族である[[大隈重信]]から派遣されたコックらの作る西洋料理が使われた{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=157}}。コックの西洋料理についても、試作品を多嘉子が家庭向けにアレンジしていた{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}。このほか、様々な執筆活動に必要な書籍や新聞記事の収集、資料探しなども多嘉子が引き受けており{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=202}}、小説・エッセイの類は、記事に誤りがないかどうかすべて多嘉子がチェックしていたとされる{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=202}}{{Sfn|火坂雅志|2004|p=62}}。
弦斎自身は、こうした多嘉子の貢献について『食道楽』の続編<ref>{{Cite book |和書 |author=村井弦斎 |title=食道楽続編 |volume=春・夏の巻 |publisher=玉井清文堂 |year=1928}}</ref>のはしがきで、{{Quote|味覚の俊秀、調味の懇篤、君は実に我家のお登和嬢たり。小説食道楽の成りしも、一半は君の功に帰せざるべからず。}}と記し、同作のヒロイン・お登和になぞらえて多嘉子を称えている{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=16}}{{Sfn|山本文乃|1982|p=47}}。
 
村井弦斎に傾倒し、墓前祭「弦斎忌」の実行委員長を務めていた小説家の[[火坂雅志]]は、このお登和というキャラクターは多嘉子をモデルにしたもので間違いないとし、弦斎の美食生活を支えていたのは料理の達人だった多嘉子であると評価している{{Sfn|火坂雅志|2004|p=61}}。また、村井弦斎研究で[[サントリー学芸賞]]を受賞した[[黒岩比佐子]]は、弦斎が多嘉子に宛てた手紙を分析し、「秘書のようでもある」と位置づけている{{Sfn|黒岩比佐子|2004|p=202}}。[[新人物往来社]]の郷土史研究賞特賞の受賞経験を持つ平塚市の郷土史研究家・[[丸島隆雄]]も、村井多嘉子を「『弦斎事務所』の優秀な秘書でもあった」としている{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=13}}。また、丸島は、多嘉子と弦斎は食育研究・家庭生活研究を進めていくうえで「車の両輪のような関係」だったと分析し、「弦斎夫人」との呼び肩書{{Efn|村井多嘉子は多くの著作でこの肩書を使っているほか、地元平塚の士・文化人らで組織した会にも「弦斎夫人」という肩書で参加している{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=26}}。}}は、村井多嘉子はあくまで弦斎の妻に過ぎないということを示すものではなく、これまで弦斎の名で発表されてきた数々の食に関する研究の共同研究者が村井多嘉子であったという事実を示すものとしてとらえることを提唱している{{Sfn|丸島隆雄|2019|pp=26-27}}。
 
=== 著書『弦齋夫人の料理談』 ===
例えば、当時まだ新しい食品だった[[牛乳]]に関する「牛乳は如何に料理すべきか」という問いに対しては、夏の料理として牛乳の葛餅(フランスの[[ブラン・マンジェ]]のアレンジと考えられる{{Efn|江原絢子と東四柳祥子は、『弦齋夫人の料理談』に掲載された牛乳を葛餅にする料理はフランスのブラン・マンジェのアレンジであると指摘している{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=115}}。}})や牛乳羹が紹介されている{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=115}}{{Efn|このほか、「薩摩芋のバター焼きは如何にするか」「パンと牛乳は如何にするか」「オムレツは如何に作るか」「薩摩芋と牛乳とは如何に料理するか」「牡蠣のクリームは如何にするか」などの問いで牛乳・乳製品が取り上げられ、扱い方の諸注意や乳製品の見極め方、調理のコツなどが示された{{Sfn|東四柳祥子|2019|p=278}}。}}。料理のレシピ以外にも「朝食はこうあるべき」といった食事の心得も盛り込まれ{{Sfn|小野員裕|2015|p=69}}、[[食育]]の重要性も説かれた{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=26}}。[[1909年]]に刊行された第2編では、「弁当料理は如何にすべきか」「学校通ひの弁当は如何にするか」などの問いで子供の[[弁当]]のあり方を取り上げ、弁当に適した料理を紹介したほか、腐敗防止のために梅干を入れることや冷めた米飯の上に温かいおかずを置かないようにすることなど独自の見解を述べている{{Sfn|東四柳祥子|2019|pp=190-191}}。また、[[1912年]]刊行の第4編「玄米応用手軽新料理」では、[[玄米]]の[[脚気]]予防効果を探り、当時の新しい知見の紹介や実験・研究成果の報告をして{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=20}}、日本人の常食調理法を一新することを目的とした玄米食を提唱した{{Sfn|星賀典子|2019|p=215}}。
 
『弦齋夫人の料理談』には、「桃のフライ」「カスタードのおしるこ」といった100年以上を経てもなお斬新とされうるようなメニューが多数掲載されており、[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]によると「レシピ本の走り」とも言われている<ref name="natalie">{{Cite web |title=ずん飯尾と壇蜜が明治時代のハイカラレシピ再現、タモリとオズワルドの対面も |website=お笑いナタリー |date=2020-05-22 |url=https://natalie.mu/owarai/news/379977 |accessdate=2021-05-05}}</ref>。大衆料理研究家の[[小野員裕]]は、明治・大正・昭和時代の日本のレシピ本を特集した[[2015年]]の書籍の中で、明治期のレシピ本の一つとして同書の第2編を取り上げている{{Sfn|小野員裕|2015|p=69}}。特に、小野は『弦齋夫人の料理談』に掲載されたレシピの一つである「牡蠣の玉子酢」を実際に作って食べ{{Efn|小野は『弦齋夫人の料理談』第4編で「日本一」{{Sfn|小野員裕|2015|p=166}}の餅として紹介されていることを受けて埼玉県の太郎兵衛餅も実食し、雑煮にしてもいつまでもコシがあるためうまいという旨の所感を記している{{Sfn|小野員裕|2015|ppp=173-174}}。}}、{{Quote|高級和食店の一品料理としてあってもおかしくない上品で繊細な料理だ。}}と評価した{{Sfn|小野員裕|2015|p=71}}。[[2020年]]には、バラエティ番組の『[[タモリ倶楽部]]』で『弦齋夫人の料理談』が特集され、掲載されたレシピを実際に調理する様子が放送された{{R|natalie}}。同年には、113年ぶりに同書が再刊され、帯には「明治時代の驚愕の美食レシピ」との文言が記された{{R|j-n}}。食文化学者の[[江原絢子]]と[[東四柳祥子]]は、『食道楽』と『弦齋夫人の料理談』とを比較して両者に全く同じ内容が含まれていることを指摘したうえで、{{Quote|『食道楽』成立のいわば裏方を担った多嘉子の実際的な解説は、同じ内容でも読む人には新鮮味があったのかもしれない。}}としている{{Sfn|江原絢子|東四柳祥子|2008|p=115}}。
 
第4編で扱われた玄米研究については、いまだ脚気の原因が[[ビタミン]]不足にあることが分かっていない時代に玄米に着目して研究していたことを丸島が指摘し、「先進的な取り組みであった」と評価している{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=21}}。
* [[大隈重信]] - 従伯父{{Sfn|飯田喜代子|1997|p=144}}。[[政治家]]、[[早稲田大学]]創立者。
* [[井上竹次郎]] - 叔父{{Sfn|丸島隆雄|2019|p=8}}。[[歌舞伎座]]経営者。
* [[後藤象二郎]] - 叔父{{Sfn|飯田喜代黒岩比佐子|19972004|p=144188}}。[[武士]]、政治家。
* [[村井弦斎]] - 夫{{Sfn|星賀典子|2019|p=214}}。[[ジャーナリスト]]、[[小説家]]。
* [[村井米子]] - 娘{{Sfn|星賀典子|2019|p=215}}。[[登山家]]、[[エッセイスト]]。
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